41 その手を取って(第1章・完)(◆アニメ6話ここまで)
テオドールを追って廊下に出たリーシェは、そのまま階段を上がる。
元々は宿屋だったらしきこの建物に、我々以外の気配はない。
テオドールはひとつ上の四階ではなく、さらに上へと向かったようだ。
屋上への扉が開け放たれているのを見つけ、リーシェは外に出た。
かつてはこの屋上に、宿の洗濯物が干されていたのだろう。たくさんのシーツがはためく光景は、圧巻だったに違いない。
いまは静まり返り、上に星空の広がるその場所で、テオドールは立ち尽くしていた。
「テオドール殿下」
「!」
途方に暮れた子供のような背中が、びくりと震える。
テオドールはこちらを向くと、リーシェを見て、拗ねたようにくちびるを曲げた。
「縛り方の次は、逃げ方の指南でもするつもりかな。『逃げ場のない屋上よりも、外に出るべきだった』とか?」
「……お逃げになるつもりなど、なかったでしょう」
本当にリーシェを振り切るつもりであれば、それこそ外に出ていたはずだ。
その指摘に、テオドールはふっと息を吐き出した。
「そうだよ。こうなったらいっそ、君とふたりっきりでお喋りしたいと思ってね。あれ以上、兄上の前で見苦しい振る舞いもしたくないし」
テオドールは屋上の端まで歩いていくと、振り返って手すりに背を預けた。
その瞳には真摯な色が宿っている。これまでの、本音をはぐらかして飄々と振る舞っていた少年のものではない。
「兄上はね。この国の良い変化が自分の功績であることを、なるべく表に出さないようにしているんだよ」
彼はそう言って、気の強そうな目を細めて笑う。
「さすがに大きな政策は、兄上のやったことだって国民にまで広まっちゃってるけど。他の細々とした改革なんかは、それとなく立案者を伏せられている。あるいは、父上が立案したかのように見せかけられているんだ」
屋上に吹き込んだ風が、彼の柔らかそうな髪を混ぜていった。
「反対に、兄上に関しては不自然なほど広まっている噂がある。何だか分かる?」
「……アルノルト殿下が、戦争で行った『残虐な』振る舞いのことですね?」
「その通り。よその国から来た君ですら、それについては聞いたことがあるはずだ。戦勝国の皇太子に関する悪評が、どうして他国にまで広まるんだと思う?」
そんな風に尋ねられれば、リーシェに求められている答えは明白だ。
「アルノルト殿下が意図して広めさせた、ということでしょうか」
「僕も同意見。――自分の功績を隠し、代わりに悪評を広めようとする。そんなことをしている人間が、ずっと表舞台で国政をしていくつもりだなんて思えないよね」
テオドールは、ゆっくりと目をつむった。
「それ以外にも、兄上を観察していてふと感じることがある。『この人は、今の地位に執着していないな。いつでも消えられるように動いているな』って。ずっと見ていたから分かるんだ」
「……」
「この先の兄上が、何をするつもりかは分からない。だけどあんな素晴らしい人が消えるだなんて、そんなことあってはならないんだよ。そう思うでしょ?」
アルノルトが選ぶ未来のことを、テオドールは知らない。
兄が表舞台から降りるのではなく、その中央で殺戮を始めることなど知るよしもない。
しかし、テオドールが感じている危機感は、その未来に結びつくものだろう。
「僕のやったことは、ほとんど兄上の真似だ。兄上がこの国を僕に託して消えるつもりがあるなら、僕が先に消えればいいじゃない? そうすれば兄上は、馬鹿なことなんて出来なくなる」
兄と同じ青色の目が、リーシェを見る。
「これが、僕が兄上の役に立つ唯一の方法なんだよ」
テオドールは、穏やかに笑った。
リーシェが彼に言いたいことはたくさんある。それから、聞きたいことも。
「どうして私に、そのことを話してくださる気になったのですか」
「さっき、君も僕と同じものが怖いって言ってただろ? 僕の考えが読まれているんだとすれば、君も兄上が消えることを恐れているってことだ。そうなれば怖いのは当然だよね? 夫に何かあれば、妻としての立場が危うくなるんだもの」
実際は違う理由なのだが、リーシェはそれを指摘しない。
『あなたの兄君が、五年後に私の死因になるんです』だなんて、伝えられるはずもなかった。
「だからね。僕の話を聞いて、君の恐怖がさらに現実的なものになるのであれば、話す価値はあると思ったんだ」
テオドールはそこで、少し意地の悪い目つきになる。
「そうすれば、君にもっと怖い思いをさせられるんだろうなって」
「……」
ずいぶんと歪な動機を聞き、リーシェはげんなりする。
兄弟そろって、人の感情を揺さぶることを面白がるのはやめてほしい。
「なあにその顔。大好きな兄を取られちゃったんだから、これくらい良いだろ? まあ別に、僕の兄上だったことは一度もないんだけど。君がいずれ来る未来を怖がって、兄上を止められないことに今後絶望してくれるなら、その留飲も下がるかな」
「お言葉ですが」
ひときわ強い風が吹く。肩に掛けたアルノルトの上着が飛ばされないよう、リーシェはそれを手で押さえた。
「私は、未来を怖がり続けるつもりはありません」
「……え」
テオドールの目が丸くなる。
リーシェはそのとき、不意に足元が歪むような感覚を覚えた。
(薬が切れてきたわね)
不調を誤魔化すために飲んだ薬だが、いよいよ効きが悪くなってきている。でも、あと少しだけだ。
「あなたの兄君はきっとこの先、途轍もないことを起こすおつもりでしょう。だから私は全力で、どんな手段を使ってでもそれを止めます」
深呼吸をし、しっかりと立つ。揺らがないよう前を見て、ひとつずつ言葉を紡ぐ。
「費やせるものはすべて費やし、借りられる助けはすべて借ります。あんなとんでもない人に、手段を選んで勝てるとは思いませんから。そして、それには当然、テオドール殿下」
リーシェはまっすぐ彼を見据えた。
「あなたの力も必要なのです」
「……僕が……?」
テオドールが、驚いたように目を丸くする。
だが、彼はすぐに表情を変え、どこか自嘲めいた笑みを浮かべるのだ。
「さすがは兄上の奥方だ、すごい自信だね。でも、僕はあの人を止められるとは思えない。あの人に、僕の言葉が届くわけもない。出来ることは精々、こうしてあの人の邪魔をするくらいだ」
「それでもあなたはこの二年間、ずっと行動を続けてきたのでしょう? ご自身の立場を危ういところに追い込み、手を汚すような真似までして。ですが、兄君をお助けしたいのであれば、あなた自身が幸せにならなくてはならないのです」
「……なにを言ってるの?」
言葉の意味が、テオドールには本当に分からなかったらしい。
「どうして僕が幸せにならなきゃいけないんだ。そんなもの、兄上の未来には関係ない」
「関係あるに決まっています。あなたを不幸にして得られる未来を、アルノルト殿下が手に取るはずもありません」
「だから、それが何故……」
混乱する少年に、リーシェは告げる。
「あなたは彼の、世界にひとりきりの弟でしょう」
「――!」
テオドールは、信じられないものを見るかのようにリーシェを見た。
「アルノルト殿下が、こんな夜中にひとりでこの場所へ出向いたのは何故だと思いますか」
「……そんなもの、君を助けるためだ。決まってるだろ」
「いいえ、殿下は私が大人しく捕らわれていないことをご存知です。私を助ける必要などないと、分かっていたはず」
それから、テオドールがリーシェに決して無体な真似をしないであろうことも、きっと知っていた。
「これがもし他の方の呼び出しであれば、アルノルト殿下はきっといらっしゃいませんでした。皇太子として動かざるを得ない場面であったとしても、おひとりでなんて選択をなさるはずもない。他ならぬ弟君からの要求だからこそ、応じたのでしょう」
「……やめろ。そんな言葉はいらない」
テオドールは苦しそうに、声を絞り出す。
「愛されているかもしれないなんて、そんな希望を抱きたくない」
「テオドール殿下……」
「僕なんかが、あの人の視界に入っているはずもないんだよ。父親にも無視されているような人間が、兄に尊重されているわけがない。でも、それでいいんだ」
テオドールはひとつ息を吐きだしたあとで、にっこりと笑った。
「僕は以前、兄上に助けられたことがある。だから僕もいつかは、兄上をお助けしたかった。……兄上は、あの日のことを覚えてもいないだろうけれどね」
そう言って後ろを振り返り、手すりの外を見やる。
「僕の使いどころは、僕自身が決める」
「……?」
「まだるっこしいことを企んでないで、本当はもっと早くこうするべきだったんだ。……まったく、大失敗だな」
「――まさか」
ぞっとした。
テオドールが何をするつもりなのか、ここにきてようやく理解したからだ。まるで遊ぶように手すりへ腰かけたテオドールが、ふらりと外側へ体を傾けた。
「駄目です、殿下!」
リーシェは急いで彼の方へ駆け出そうとする。それと同時に視界が揺れ、足が縺れて倒れ込んだ。
(っ、こんなときに……!)
立ち上がろうとするのに、体へ力が入らない。ひどい頭痛が警鐘のように頭蓋を揺らし、息が切れる。
倒れ込んだリーシェを見下ろし、テオドールは満足そうな顔をした。
「ありがとう義姉上。僕を必要だと言ってくれたことは、不覚にも嬉しかったよ」
「待って……!」
必死で手を伸ばしても、数メートル離れたテオドールに届くはずはない。
「駄目!」
ほとんど悲鳴同然に叫んだ、そのときだった。
リーシェの横を、ひとりの影が駆け抜ける。
その人物は、目を丸くしたテオドールの腕を掴んだ。それから強引に、手すりのこちら側へと引き戻す。
その姿を見て、テオドールが息を呑んだ。
「兄上……!?」
自分を助けたアルノルトのことを、まるで信じられないものを見るかのような目で見上げる。
一方のアルノルトがどんな顔をしているのか、背を向けられているリーシェには見えない。
しかし、次の瞬間に彼が取った行動に、リーシェも驚いた。
アルノルトは、自分が引き倒したテオドールの胸倉を掴むと、その頬を張ったのだ。
「――っ」
「何を考えているんだ、お前は!」
アルノルトのあんなに大きな声を、リーシェは初めて聞いた。
頬を抑えたテオドールが、呆然として兄の顔を見上げる。
「……だって……」
テオドールは、絞り出すように声を紡いだ。
「だって出来ないんだ。こうすることでしか、僕は兄上の役に立つことが出来ない。兄上にとって、価値のあるものになれないんだよ……!」
「それこそが愚考だ。兄らしいことを、たったのひとつもしたことのない人間のために、命を懸ける馬鹿が何処にいる」
アルノルトの声音はとても冷たい。
それでもリーシェは確信した。アルノルトがテオドールを遠ざけるのは、やはり弟を慮ってのことなのだ。
「俺のために、そんなことをする必要はない」
「……っ」
テオドールが口を閉ざす。恐らくは、兄に伝えることを諦めようとしていた。
リーシェは、先ほどのテオドールが、悲し気に笑ってそう口にしたことを思い出す。
『あの人に僕の言葉が届くわけもない』と、そう言っていた。テオドールの諦めと、アルノルトの突き放しが、これまでずっと積み重なってきたのだ。
「……弟君の選択は、正しいことではなかったかもしれません」
リーシェは、必死に身を起こしながらそう告げた。
アルノルトがゆっくりと振り返る。彼を真っ向から見据え、頭痛を我慢してリーシェは訴えた。
「それでも、根本の想いは間違っていません。弟君があなたの力になりたいと願うこと、それ自体が愚考なわけはないのです。……そうでしょう? テオドール殿下」
「!」
肩で息をしながら名前を呼ぶと、テオドールがぐっと拳を握り込んだ。
「義姉上の、言う通りだ」
「何を……」
アルノルトがテオドールを見遣り、リーシェから再び表情が見えなくなる。
その代わり、テオドールの顔つきはよく見えた。
彼は先ほどまでの、どこか途方に暮れたような顔ではなく、強い意志を宿した表情をしている。
「僕は何度だってそう願うよ。兄上の力になりたいし、役に立ちたい。お助けできるならなんでもする、だって」
兄に似ていない彼の瞳が、真っ向からアルノルトを見つめた。
「あなたは、世界でたったひとりの兄であり、僕の憧れなんだから」
「……」
アルノルトは、どんな顔をしたのだろうか。
それを窺うことの出来ないリーシェは、祈るような気持ちでふたりを見守る。
やがてアルノルトは、テオドールの胸倉から手を離し、ゆっくりと離れた。
「金輪際、余計なことをするのはやめろ」
「……っ」
再び突き放すようなその言葉に、テオドールが顔を歪める。
リーシェの胸も、ずきりと痛んだ。だが、アルノルトが続けたのは、思いもよらぬ言葉だ。
「俺は言ったはずだぞ。――もう二度と、自分の命を張るような真似はするなと」
その瞬間、テオドールが目を丸くする。
「あの時のこと、覚えてたの?」
震える声で尋ねる声に、アルノルトが答える。
「当たり前だ」
「……っ」
その途端、テオドールの大きな目から透明な雫が伝い落ちた。
「……ごめんなさい」
その声はぐらぐらと揺れている。
テオドールはぼろぼろと涙を零しながら、何度も何度も繰り返した。
「ごめんなさい兄上。ごめんなさい、義姉上。ごめ……」
幼い子供のように泣きじゃくる弟を前に、アルノルトが少し困ったような声で言う。
「分かったから、泣くな」
「っ、だって……!!」
そんなふたりを見て、リーシェはほっと息をついた。
(よかった。あんな顔で泣けるなら、もう大丈夫……)
テオドールの泣き顔は、小さな子供が勇気を出して仲直りをしたときのそれだ。
アルノルトはやがて立ち上がると、今度はリーシェの前に跪いた。
「怪我はないか」
「来てくださったのですね、殿下」
「お前が、妙に気に掛かることを言うからだ」
ひょっとして、テオドールがいなくなるかもしれないと警告したことだろうか。脅しに聞こえたかもしれないが、リーシェにしてみれば半分本音だ。
「良かったです。仲直りが出来て」
「……」
アルノルトは無言で立ち上がると、黒い手袋を嵌めた右手をリーシェに差し出してくれた。
リーシェは微笑み、アルノルトの手を取る。すると不思議なことに、緊張の糸が緩むような心地がした。
「本当に、良かっ……」
「……リーシェ?」
力が抜ける。
それと同時に、これまで気力で保ってきた意識がふっと遠のいたのだった。
***
「義姉上!?」
突然リーシェが倒れたのを見て、テオドールは思わず声を上げた。
ぐったり力を失った彼女の体を、兄が咄嗟に抱き止める。テオドールは慌てて立ち上がり、袖口で涙を拭いながら駆け寄った。
「一体どうしたんだよ!? 確かにさっき、足が縺れて転んだみたいだったけど……」
ひょっとすると、『体調が悪くて倒れた』という当初の知らせは、演技ではなくて事実だったのだろうか。
その可能性に気が付いて、テオドールは青ざめる。
「どうしよう。まさか僕が監禁したせいで、義姉上が……」
「違う」
妙に冷静な兄が、腕の中のリーシェを見下ろしてぽつりとつぶやく。
「ただ、眠っているだけだ」
「へ」
思わぬ言葉にぽかんとする。
よく見れば確かにリーシェは、すうすうと健やかな寝息を立てているではないか。
「嘘だろ……」
この状況で、寝るのか普通。
呆然と呟いたテオドールと違い、兄は少し笑っていた。それを見て、ああ、と思う。
これもまた、初めて見る兄の表情だ。
目の当たりにしても、先ほどまでのようにざわついた気持ちにはなることはない。その心境の変化を、我ながら不思議に感じる。
「テオドール」
兄に突然名前を呼ばれ、はっとした。
「馬車はどこかに用意しているのか」
「き、決まってるだろ」
兄から話しかけられることに慣れないせいで、若干そっけない言い方になってしまう。
「少し離れた場所に待機させてる。義姉上を運ぶのなら、すぐに呼ぶよ」
「ああ。頼んだ」
兄はそう言ったあと、リーシェを軽々と横抱きにする。
「馬車が来るまで、こいつを下の部屋で休ませる」
「……分かった」
テオドールは頷いたあと、目じりの涙を改めて拭う。
あの兄上がお姫様抱っこをするなんて、とんでもない事態だな、などと思いながら。
「――『頼んだ』だって。兄上が、僕に……」
兄に張られた頬がじんじんと痛む。
それでも、胸の奥はひどく温かかった。
(さあ。ぼんやりしてはいられない)
何せ、あの兄が初めて自分を頼ってくれたのだ。
テオドールは立ち上がり、階下に向かって歩き始めた。
***
リーシェがゆっくりと目を開けると、そこは陽だまりの中だった。
正確に言えば、陽光の差し込む寝台の上だ。
さらさらのシーツにふかふかの布団、そんなものに包まれていて、まさしく夢見心地の空間だった。
おまけに先ほどから、心地よいペンの音が聞こえている。
それに耳を傾けていると、意識が再び、とろとろとした眠気へと沈みそうだった。
(ペンの音?)
そこでようやく不思議に思い、体を起こす。
すると、少し離れた場所にある机に向かい、書類にペンを走らせているアルノルトの姿が目に入った。
「え」
「なんだ、もう起きたのか」
アルノルトはその手を止めると、リーシェを見て笑った。
「あ、アルノルト殿下!?」
「まだ寝ていても構わないぞ。なにせあれから半日しか経ってない」
「半日って、どういう……」
どう見てもここは、離宮にあるリーシェの部屋だ。何が何だか分からない状態の頭に、アルノルトが説明をしてくれる。
「お前はいきなり倒れたと思ったら、そのまま屋上で熟睡し始めた。愚弟の馬車で連れ帰ったが、倒れた人間をひとりで部屋に放り込んでおくわけにもいかないだろう。ましてや、事情を知らない侍女に面倒を見させることも出来ない」
「ま、まさかそれで殿下が、寝ずについていてくださったのですか……?」
「仕事を片付ける必要があったから、いずれにせよ寝ている暇はなかったが」
「申し訳ありません!!」
慌てて寝台に正座をし、リーシェは頭を下げる。そのとき、自分の着ているドレスが、眠るとき用のシンプルなものになっていることに気が付いて青褪めた。
(な、なんで!?)
「安心しろ。着替えさせたのは、エルゼとかいうお前の侍女だ」
思考を先読みされた感があるものの、ひとまずはほっとする。
ゆっくり顔を上げると、アルノルトは椅子から立ち上がってリーシェの前に立ち、こう尋ねてきた。
「体調は」
穏やかな声音だ。整った顔に見下ろされて、妙に落ち着かない気持ちになる。
「……もう、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「回復したのならいい」
続いてアルノルトは、懐から一通の封筒を取り出した。
受け取って中を開いてみれば、四つ折りの跡がついた白い紙には、いつか見た筆致で文字が綴られている。
『義姉上へ』
どうやらこれは、テオドールからの手紙のようだ。
『色々とひどいことをしてごめんなさい。言いたいことは沢山あるけれど、掻い摘んで。――まず、君への借りは必ず返す。そのためなら貧民街の連中も貸してあげるよ。裏社会の人間が必要な場面がくれば、いつでも僕らを頼っていい』
リーシェは内心で苦笑した。
(……申し出そのものは、とても心強いけれど)
なるべくであれば、そういう事態には陥りたくないものだ。
『せいぜい感謝してね。――それから、ありがとう』
手紙だからこその率直なお礼を、指先でそっと撫でてみる。
「……テオドール殿下と、お話をされたのですね」
そう口にすると、アルノルトがわずかに眉根を寄せた。
「どうしてそう思う」
「でなければ、そもそも手紙を預かるなんて真似はなさらないでしょう?」
アルノルトは答えなかったが、それが肯定の証でもあった。
何はともあれひと安心だ。
これで少しは、いままでの人生との変化が生まれたのではないだろうか。
それに何より、兄弟の距離が縮まったように見える。
それが嬉しくて微笑むと、アルノルトが尋ねてきた。
「何故、お前がそんな風に笑うんだ」
「それはもちろん嬉しいからですよ。夫の家族関係は、良好なのに越したことはありませんから」
「……妙なやつだな」
こちらを見下ろして、アルノルトは目を伏せる。
その表情は、いつもより幾分柔らかい。
しかし、アルノルトはふと思いついたような顔をしたあと、こう言った。
「忘れていた。近日中にまた、欲しいものを何かひとつ考えておけ」
「欲しいもの、ですか?」
まさか、買ってくれるという話だろうか。理由が分からずに訝ると、アルノルトがこう続ける。
「お前に触れないという誓いを、再び破ってしまったからな」
「?」
「夜会の際に手袋越しであればという許可は出ていたが、あのときはその制約も守らなかった」
そんなこと、あっただろうか。
思い出せなくて首をひねる。
リーシェの思い出せる限り、最近のアルノルトはいつ見ても、黒い手袋を着けているように思ったのだが。
たとえば、いまだってそうだ。
「……あ」
その瞬間、思い当たる。
一週間ほど前、礼拝堂であった出来事のことを言っているのだ。
あのときもアルノルトは手袋を着けていたが、触れたのは手ではない。
(手じゃなくて、くちびるが……)
直後、リーシェは顔が一気に熱くなるのを感じた。
「い、いりません何も!!」
慌ててそう声を上げ、顔を隠すためにシーツを引っ掴む。アルノルトはその様子を見て、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「というかそんなことより、何故あんなことをしたのかの理由を……」
「聞きたいか?」
「聞きたくないです!!」
本当は追及したかったのに、思わず全力で拒否してしまう。だがこの件に関しては、昨晩久しぶりにアルノルトに会った時も、ものすごく緊張したのだ。
テオドールと話をしなくてはならなかったのに、アルノルトの顔を見た途端に体が硬直した。
だからこそ、彼が普段通り接してくれて安堵したし、アルノルトの中では無かったことになっていると思っていたのに。
(やっぱり何か意図があってしたの!? それとも違うの!? もうなにがなんだか、だから考えないようにしてたのに……!)
「リーシェ」
「っ、今度はなんですか!」
熱くなった顔をシーツで隠しながら、目元だけ出してアルノルトを睨みつける。
アルノルトは小さく笑ったあと、柔らかな声でこう言った。
「……弟が、世話を掛けた」
「!」
それは、紛れもなく兄としての言葉だった。
弟への責任感や、労わりの含まれた、そんな言葉だ。
テオドールにも聞かせてあげたかった。そんな風に思いながらも、リーシェは「いいえ」と首を横に振る。
「私にとっても、義弟となるお方ですから」
アルノルトは少し驚いたような顔をしたあと、再び笑った。
「……そうか」
「ええ」
顔の火照りは治まってきたというのに、なんだか胸の奥がまだ熱い。
そのことに少し困って、リーシェは俯くのだった。
***
夕刻のこと。
アルノルトの従者オリヴァーは、主君が執務を抜けたことに関する説明を聞き終え、痛む頭を抱えていた。
「それで最終的には、テオドール殿下がリーシェさまのお味方に、と。……要約すると、そうなるわけですが」
「何か問題があるか?」
「分かっていて仰っているでしょう」
執務机に向かったアルノルトがしれっと言うので、オリヴァーは小言を重ねる羽目になる。
「弟君は普通の皇子ではありません。あのお方が率いているのは、犯罪まがいのことにも手を染めている、裏社会の人間なのですよ?」
「そのようだな」
「我が君もご存じでしょうが、この城の年若い侍女たちはすっかりリーシェさまをお慕いしています。……続いて、近年各国から注目を浴びているアリア商会。第二皇子殿下と、彼が率いる裏社会の住人たち」
オリヴァーは指折り数えてゆく。皇太子妃となる彼女が、この国に来て僅か数週間で得た人脈を。
「リーシェさまの手駒が、どんどん拡充されているように思えてならないのですが?」
これはある種、脅威とも言えるほどに。
だが、アルノルトはどうでも良さそうだった。
「それがどうかしたか。妻になる人間が孤立無援であるよりは、よほど良いはずだが」
「我が君……」
恐らくこの主君は、意図してこの事態を放置している。
それが分かり、オリヴァーは盛大な溜め息をついた。
「分かりましたよ、すべて我が君の御心のままに。そしてそんな我が君の元に、さらなるお届けものです」
オリヴァーは一通の手紙を差し出す。その封蝋に押された刻印を見て、アルノルトが眉をひそめた。
主君は渋々封筒を受け取ると、中の手紙を開いて目を通す。
それから小さく舌打ちをし、手紙をオリヴァーによこした。
オリヴァーは恭しく一礼をして、その手紙を受け取る。
「これは……」
そこには、とある国の重要人物によって、こんな内容がしたためられていた。
まずは、皇太子アルノルトの婚約を祝う言葉。
しかしながら事情により、およそ二か月後にある婚姻の儀での祝福が難しいこと。
それに伴い、婚姻の儀が行われる前に、祝いの品を持ってガルクハイン国を訪問したい旨が書かれている。
(なんというか、また……)
一波乱ありそうなその申し出に、オリヴァーは額を手で押さえたのだった。




