4 婚約破棄なら大歓迎ですが?
飛び降りの際は、体を地面に対して垂直に着地してはいけない。飛び降りた先が柔らかな芝生とはいえ、足への負担が大きすぎる。
最初に足裏で着地したあと、地面をごろんと転がるように、脛から太ももへと接地してゆく。順に腰、背中とドレス姿で転がって、むくりと起き上がった。
(さあ、急がなきゃ!)
珊瑚色の髪にたくさんの葉っぱをつけたまま、リーシェは靴を見る。ふと思いつき、近くに大きな石を見つけると、てこの原理で思いっきりヒールを折った。
これでいくぶん走りやすい。満足して靴を履いたリーシェは、再び駆け出すのだった。
***
バルコニーでは、ガルクハインの皇太子アルノルトが、その一部始終を眺めていた。
アルノルトの目は、珊瑚色の髪をした少女の後ろ姿に注がれている。
一見すると単なる貴族令嬢だが、アルノルトのことを『皇帝』と呼んだ彼女の身のこなしは、相当腕の立つ剣士のものだった。
バルコニーから飛び降りたあとの、完全な受け身を取った着地。
ドレスを汚して顔色ひとつ変えないどころか、靴の踵を折ってから走り出す規格外な行動。
「ふ……」
それらを思い出したアルノルトは、柄にもなく笑ってしまう。
「ふ、くく。くっく……」
ひとりで肩を震わせていると、後ろから従者が近づいてきた。
「殿下、このようなところにいらしたのですか? 早くホールへとお戻りください。当分ご結婚の意思がないことは承知しておりますが、お相手を探すのは今からでも――……殿下?」
従者は驚いたように目を丸くする。普段は顰めっ面が多く、つまらなさそうな目をしている主君が、いたって上機嫌に笑っているのだ。
「な、なにかあったのですか?」
「オリヴァー、馬車を出せ。……いや、それは煩わしいな。馬を一頭、馬車から外して鞍に付け替えろ」
「いったいなにを……」
アルノルトは、獲物を見つけた狼のように、ひどく好戦的な笑みを浮かべた。
***
王城の前に待たせていた馬車へと駆け込み、家に急がせていたリーシェは、あと数百メートルで屋敷が見えるというところで馬車を止めた。
「お嬢さま? お屋敷までお乗せいたしますが……」
「いいの、ここで平気! ダニエル、いままでありがとう!」
子供の頃から顔見知りだった御者に別れを告げ、走りながら振り返って手を振る。
家の前は今朝の雨でぬかるんでおり、このまま行くと馬車が立ち往生してしまうのだ。二度目のときは、それで大きく時間を損失したため、以来ここからは走るようにしている。
「はあっ、は……」
騎士として鍛えた人生と違い、いまのこの体には持久力がない。今世でもある程度は体を鍛えようと決意しつつ、リーシェは屋敷に辿り着く。
そして、がっかりした。
「ああー……」
正門の前に、人だかりが見える。
今夜は満月ということもあって、少し離れたここからでも、その様子をはっきり見ることができた。ランタンを手にした人々が、物珍しそうに馬車を眺めている。
人だかりの中心に見えるのは、王家の旗を掲げた馬車だ。
(引き返そうかしら……)
リーシェが足を止めた瞬間、人だかりを牽制していた騎士が声を上げた。
「王太子殿下! リーシェさまがお見えです!」
「どいていろ! おい、僕を通せ!!」
人だかりの向こうから、男の怒鳴り声がする。その正体は、改めて確かめるまでもない。
「遅かったなあ、リーシェ!」
騎士に守られながら姿を見せたのは、元婚約者である王太子ディートリヒだ。
「これ以上、愛する僕の口から断罪の言葉を聞きたくないという気持ちはよく分かる。しかしそうはいかないぞ! 悪女に対する正義の鉄槌を下すのも、次期国王たる僕の役目なのだからな!!」
「間に合わなかったのね……しかも、今までで一番最悪のタイミングだわ。いっそ一度目のときくらい遅く辿り着けば、殿下の顔は見ずに済んだのに……」
「……? 何をぶつぶつ言っているんだ」
ディートリヒはリーシェの顔を覗き込み、にやりと笑った。
「やっぱりな。さっきはなんでもない顔をして笑っていたくせに、内心では悲しんでいたんじゃないか」
「――はい?」
「僕に婚約破棄されたことが、悲しくて悲しくて仕方ないんだろう」
何がどうなって、その結論に至るのだろうか。疑問だったが、当のディートリヒは自信満々の顔だ。
「傷心のまま彷徨い歩いたことくらい、僕ともなれば一目で分かる! ドレスは泥だらけ、靴も壊れて満身創痍ではないか。僕に婚約破棄された悲しみで、このような有り様に……」
「馬鹿じゃないですか?」
「なっ」
斜め上の解釈に呆れ、リーシェはじとりと半目になる。
「悲しみでドレスは汚れませんし、靴も壊れません。それからご存知ないかもしれませんが、あなたから婚約破棄されても悲しくありません」
「な、な、なにいい!?」
リーシェの言い放った一言に、周囲の人々がくすくす笑った。
「なあ、あれが王太子さまなんだろう? リーシェお嬢さまにフラれちまったのか?」
「いやあ、よく分からんが、リーシェさまの方が婚約破棄されたと話してないか?」
「どうなのかしら。その割にお嬢さまは全然平気そうだし、王子さまの方が傷ついているように見えるけどねえ」
「き……貴様ら!! 平民風情が、僕に対して不敬だぞ!!」
喚いているディートリヒだが、顔立ちはかなり整った男だ。絵にかいたような金髪碧眼の爽やかな外見で、挙げ句に王太子という地位もあってか、彼に群がる女性は絶えなかった。
子供の頃から蝶よ花よと育まれ、たっぷりの自信に満ち溢れた彼は、いつも尊大な態度で周囲に接している。
たとえば、機嫌が悪いと執事に当たり散らし、『臣下に的確な叱責が出来る僕はすごいだろう』と本気で言うことも珍しくない。
リーシェが何度いさめようとも、その態度が改まることはなかった。
(本当、この人と結婚する人生を送らなくてよかったわ)
一度目の人生、彼との婚約破棄がショックだったのは、「彼を更生させることがこの国のためになる。それが自分の役目であり、使命なのだ」と自分に言い聞かせていたからだ。
けれど外の世界に出て、実際はそうでなかったことを知ってから、婚約破棄を感謝しても悲しんだことは一度もない。
「殿下。国民はあなたが護り、慈しむべき存在です。そのようなお言葉はなりません」
もはやどうでもいい相手だけれど、一応はそう注意しておく。ディートリヒのためというよりも、ここにいる人々や騎士たちのために。
「態度というなら、改めるべきはお前の方だ。僕に追いすがり、許してくださいと詫びる気はないのか?」
「いえ、まったく。どちらかというと、婚約破棄をしてくださってありがとうございますという気持ちの方が……」
「なにい!?」
周囲の人々だけでなく、騎士たちまで笑い始めた。彼らの場合、大っぴらに笑うことは出来ないので、肩を震わせながらも懸命に口元を押さえている。
それを見て、ディートリヒが顔を真っ赤に染めた。
「ぼ、僕を笑いものにするな!」
「そうです。ひどいですわ、リーシェさま……」
続いて聞こえてきた甘い声に、リーシェは溜め息をついた。
人だかりの向こうから歩み出たのは、華奢で小柄な愛らしい少女だ。大きな目を涙に潤ませた少女は、ディートリヒを庇うように前へ出た。
「いくら傷心のさなかといえど、ディートリヒ殿下にそのようなお言葉……っ! わたくしの大切な方を、どうかこれ以上傷つけないでください!」
「マリーさま。いらしていたのですか」
ディートリヒの恋人であるマリーは、涙に潤む目でリーシェを睨んだ。
婚約破棄した女を追いかけるのに、どうしていまの恋人を連れてくるのか。その神経が信じられないが、ディートリヒはマリーの後ろで、相変わらず喚き続けている。
「リーシェ、お前はまた僕の可愛いマリーを泣かせたな!? マリーからすべて聞いているぞ。学園で彼女をいじめ、馬鹿にして笑い、時には夜の教室に閉じ込めたと! お前のような性根のねじ曲がった女が、王妃になどなれると思ったのか!?」
(まあ、そんなこと実際はしてないのだけれど……)
ちらりとマリーを見れば、いささか気まずそうに視線を逸らす。
「そんなことより殿下。私の両親に、婚約破棄のことはもう話してしまわれましたか?」
「そんなことより!? ――ああ、話したさ! 公爵夫妻はたいそう怒って、お前を勘当すると誓いを立てたぞ!」
「ああー……。やっぱり手遅れだったのね……」
何よりも世間体を重視する両親だ。これはもう、自分の部屋から財産を持ち出すなど望めないだろう。
「なんだその反応は! お前、さっきからいつもと雰囲気が違いすぎるんじゃないか!? やはり婚約破棄がショックで……」
「いいですか、ディートリヒさま」
もはや王太子と呼ぶのも疲れてしまい、リーシェはげんなりと口を開いた。
「婚約破棄の命、しかと承ります。金輪際あなたさまの前に、わたくしが姿を現すことはございません。どうかご安心なさいますよう」
「え!? な、なんだと……?」
「子供のころからずっと、『王太子の婚約者』という立場だけが私の価値であり、生きている意味だと思っていました。けれどもそれは間違いで、価値なんか自分で見つけられる。それが分かったから、もういいのです」
ディートリヒの目を見て、リーシェははっきりと告げる。
「私の人生に、あなたの存在は必要ない」
「な――……」
数歩よろめいたディートリヒが、どさりと地面に尻餅をつく。
絵に描いたような衝撃の受け方を見て、ついに耐え切れなくなった騎士たちが、周囲の民と一緒に笑い始めた。