38 破られた扉
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テオドールが兄と向き合うのは、皇都の外れに借り受けた質素な部屋だった。
椅子に座した兄は、肘掛けに頬杖をついている。少し気だるげなその無表情は、なんの感情も窺えないが、見ようによっては不機嫌そうにも感じられる。
そうであればいいと願いながら、口を開いた。
「嬉しいなぁ。兄上がわざわざ、こんなところまで来てくれるなんて」
心から微笑んでみせても、正面の兄は何も言わない。だからテオドールは構わずにはしゃぐ。
「それも護衛なしに、ひとりきりでさ! いままで僕が何度『お会いして話したい』ってお願いしても、全然聞いてくれなかったのに」
「……」
「兄上とこんな風に話すのは、何年振りだろ。いいや、もしかしたら初めてかもしれないね!? まさに兄弟水入らずだ!」
けらけらと笑ったあとで、テオドールは少し顔を歪めた。
「……彼女のためなら、兄上は、僕なんかの言うことでも聞くんだね」
そう思うと、胸の奥でちりちりと何か焦げるような気がする。
「時間の無駄だな」
ようやく発せられた兄の言葉は、ひどくつれないものだ。
「呼びたてたのであれば、さっさと用件を話せ」
「ひどいじゃないか。貴重な兄弟の語らいなのに」
「お前と語らう必要など、何処にもないな」
その言葉に、テオドールは舌打ちをする。
「ねえ分かってる? あなたは僕に逆らえる立場じゃない。お気に入りの女を攫われたんだから、もっと焦った顔を見せてよ!! ああ、それとも実際は、あんな子のことはどうでもいいのかな?」
挑発のためにそう言ってみせたが、そんなはずがないのは分かっている。
テオドールだって、最初に話を聞いたときは「くだらない茶番だ」と思ったのだ。なにせあの兄が、異国から花嫁を連れて戻るというのだから。
高位貴族たちは、「恐らくは人質としてだろう」と断定していた。かねてより父帝は、兄へ政略結婚を命じていたからだ。
他国の姫を娶り、ガルクハイン皇室に入れることで支配下に置く。
それは父帝の方針であり、父帝自身が実行してきたことでもある。テオドールの亡き母も、かつては隆盛を誇った国の王女なのだ。
兄はその命令に応えるべく、他国から適当な女を選んで連れ帰ったのだろう。当初はテオドールも、貴族たちと同じ見解だった。
何かがおかしいと感じたのは、兄の帰国に先んじて到着した伝令が、『婚約者のために侍女を集める』という命令を携えていたからだ。
侍女候補としてエルゼを潜り込ませつつ、動向を探らせた。すると兄は、花嫁のために離宮を用意し、準備が整い次第そこで暮らすつもりだというではないか。
そんなこと、お飾りの妻を据えたつもりなのであれば有り得ない。主城の片隅にでも鳥籠を作り、そこで餌だけ与えて放置すればいいはずだ。
それをせず、共に暮らすだなんて。
(そんなもの、羨ましくなるに決まってるよねえ)
彼女を自由にさせ、畑を与えたと聞いたときは、その耕地を踏み荒らしてやりたいと思った。
だが、子供じみた羨望は押し殺す。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーは、テオドールの目的に利用できると確信したからだ。
現にいま、兄とこうして話すことが出来ている。
『近づくな』と命じられ、城内で顔を合わせたところで、声を掛けることすら許されない兄と向き合って、直々に会話が出来ているのだ。
「お前のやっていることには、なんの意味もない」
「意味がない、だって?」
テオドールはくすくすと笑った。
「やっぱり兄上にとって、僕は役立たずで価値のない、ただ血が繋がっているだけの他人なんだね。今回のことで、役立たずの弟でも兄上に危害を加えることは出来るんだって分かってもらえたと思ったのに。……だけどそろそろ、本題に入ろうか」
テオドールは兄の真似をして肘掛けに頬杖をつく。そして、言い放った。
「僕が望むのは、もちろん次期皇帝の座だよ。兄上」
兄はこの要求を予想していただろうか。あるいは、単純にどうでもいいのだろうか。いずれにせよ、やはりその表情は動かなかった。
そのことを、心底つまらなく思う。
(彼女を礼拝堂に呼び出した夜は、あんなに冷たい目で睨んでくれたのに……)
やはり継承権の要求などでは、兄の心を揺さぶれるはずもない。
テオドールが知る限りでの兄の弱みは、いまのところあの少女ただひとりだ。そして彼女の身柄はいま、自分の元にある。
やはりそこを突くしかないだろう。
テオドールは立ち上がり、兄への脅迫を続けた。
「聞こえていた? 義姉上を無事に返してほしかったら、継承権一位の座を降りて僕に譲ってって言ったんだ。兄上が応じてくれないなら、彼女に何をするか分からないよ」
「……」
「嫌だよね、そんなことになったら。平気な顔をしているけど、心配なんだよね?」
一歩だけ、兄の方へ歩を進める。
「分かってる。彼女は兄上にとって、本当に大切なものなんでしょう? 顔も見たくないような実の弟や、皇都から遠ざけた妹たちよりもずっと! あの子を大事にして、あの子に関心を持って、あの子を傍に置きたいと思っている。それくらいちゃんと分かるよ? だって僕は兄上のことを、ずっと見てきたんだから……!」
また一歩、兄の元へ進んだ。普段は決して許されないような距離へ、テオドールは近づいてゆく。
「そんな大事な人の命が、いまは僕の手の中にあるんだ。本当は心配だろう? きっと気が気じゃないんだろう! 兄上がこんな深夜に護衛もつけず、僕の呼び出しに応じて出向いてきたことが、何よりそれを証明している!」
あの兄にこんなことを言っていると思うと、視界が歪んでくらくらした。いよいよ兄の目の前に立つと、彼を見下ろして駄々をこねる。
「ねえ、言ってよ兄上! 兄上に及ばない弟に向かって、『今回は俺の負けだ』って言って。『お前の勝ちだテオドール』って、無様に認めて皇太子を降りて? そうすれば」
自身の胸に手を当てて、兄に告げた。
「――僕の人生は、それだけで満たされる」
「……」
数秒ほどの沈黙が、室内を支配した。
やがて兄は、ゆっくりと口を開く。
「テオドール」
「!」
名前を呼ばれて嬉しくなった。
しかし、兄の表情を見て驚く。だってそこには怒りも蔑みも、ましてや嫌悪も浮かんでいないのだ。
(どうして……)
兄は悠然と椅子に掛けたまま、不敵に笑っている。
まるで、「この場において、自分の害になる者など存在しない」と言うかのように。
「少しだけ、お前の相手をしてやろう。……あいつを監禁したと言っていたが、それは鍵付きの牢獄にでも閉じ込めたのか」
「はあ?」
その問い掛けに、テオドールは少し苛立った。
牢獄なんて、そうそう何処にでもあるものではない。皇都にあるものはすべて騎士団の管理下にあり、それらは当然騎士団が調査しているだろう。
つまり、牢獄に入れてはいないことが分かった上での問い掛けなのだ。
だからこちらも嫌味を返した。
「牢獄も同然の、狭くて汚い部屋に居てもらってるよ。外から鍵をかけて、自力じゃとても出られないところにね」
「『鍵』か。それから?」
「武器を持った荒くれものたちが、彼女のいる部屋を見張っている。建物の高所にある部屋だから、窓からだって逃げられない。もしも声を張り上げて助けを呼んだら、見張りたちがすぐに飛び込んで黙らせるだろうね」
「ほう。窓まであるとはな」
「……」
何故か余裕のある返事に、テオドールはますます苛立った。
「話を聞いていた? 高いところにある部屋の窓からも、鍵のかかった扉からも、逃げられるわけがないだろう」
「逃げられるわけがない、か」
「そうだよ。万が一外に出られたところで、見張りたちに取り押さえられてお終いだ」
分かり切った話だった。それでも兄は、その余裕を崩そうともしない。
「普通は、そうだろうな」
「……っ?」
一体なんだというのだろう。
テオドールの中へ、いら立ちに続いて焦りが生まれ始める。ひょっとして自分は、人質にする人間を誤ったのだろうか。
(いいや、そんなはずはない……!)
兄が彼女に目を掛けていることは、どう見たって間違いがなかった。なのに、どうして怒りもしないのだ。
怒って、憎しみを向けて、罵倒を浴びせてくれないのだろうか。
「……やっぱり、指の一本でも切り落として持ってくればよかったかな? いまからでも遅くないけど。僕が見張りたちに出す指示ひとつで、義姉上さまは簡単に傷つくんだよ?」
「愚弟が」
兄は、テオドールを蔑むように笑った。
テオドールの求めていたものに近かったが、明確に違う。兄は、花嫁を人質に取った卑劣さではなく、テオドールの愚行を蔑んでいるのだ。
「お前に勝ちの目はひとつもない。あれを『捕らえた』と、そう思った時点でな」
「……は?」
そう言い切った兄の目が、扉の方へ向けられる。
「そら。来るぞ」
「な、なんなんだよそれは! さっきから何を訳の分からないことを。兄上らしくもない――……」
テオドールが言い募ろうとしたその瞬間、ばんっと扉が弾け飛んだ。
「え」
扉にはちゃんと鍵を掛けた。そのはずなのに、どうして開け放たれたのだ。
信じられなくて、テオドールはそちらを振り返る。
そして目にした光景は、もっと信じられないものだった。
「……うそだ……」
そこには、ひとりの少女が立っている。
手には短剣を持ち、珊瑚色の髪とドレスの裾を翻して。
兄の婚約者であるリーシェは、その美しい顔でこちらを見ると、髪を耳に掛けながらにこりと笑った。
「決着をつけに参りました。テオドール殿下」
 




