37 鍵とも呼べない
扉の内鍵が壊されているのは、テオドールが来る前に確認済みだ。
そのお陰で、中からなら簡単に開けられるはずの扉が、外から鍵を開けないと出られないようになっている。
だが、リーシェは知っていた。
(多分この辺りに……)
扉の前に跪き、小さな穴を見つけ出す。これは、内鍵が壊れてしまったときのために存在している穴だ。
細いピンがなんとか通る程度のものだが、緊急処置として鍵を開けることが出来る。
滅多に使う機会がないため、穴の存在すら知らない人がほとんどだが、リーシェは以前の人生でよくお世話になったものだ。
金色のピンを二本、その中に差し込みながらリーシェはこの後の算段を考える。
そして、リーシェが脱出しやすい環境を監禁場所に選んでくれたふたりのことを考えた。
(エルゼや騎士さんに、感謝しないと。……それに、貧民街で慕われているというテオドール殿下を、裏切らせてしまった)
リーシェがその可能性に気が付いたのは、数日前のこと。
テオドールから、アルノルトを騙った手紙が届いたときのことだった。
あの手紙は、リーシェの部屋に置かれていた。
扉の下の隙間から差し込まれていたとはいえ、離宮内に入らなければ到底できない芸当だ。
そしてこの離宮は現在、リーシェとその侍女、護衛の騎士以外に出入りする者はいない。
公式に部外者の立ち入りが禁止されているわけではないが、それでも、無関係な人間が入ってくれば目に入る。
ただでさえいまは、離宮内の大掃除や整備が行われており、あちこちに侍女がいるのだ。
まったく無関係の人物が、誰にも目撃されずにここまで来るのは難しいだろう。
リーシェがそれとなく探ったところ、見慣れない人物がこの離宮に出入りしたという事実は特になさそうだった。
皇太子であるアルノルトの出入りすら、先日のように侍女の噂になる。少なくとも、目撃者はいないはずだ。
だとするとあの手紙は、侍女もしくは護衛の騎士のどちらかが持ち込んだという可能性が高い。
テオドールが、無関係の侍女などに手紙を預けた可能性も考えた。
しかし、皇家の刻印が捺された封筒をリーシェの部屋に置いてくるなど、それこそ噂になってもいいような内容だ。
そうなれば、『テオドールの計画に味方する人物が、侍女か騎士の中にいる』という考えが、妥当なのだった。
探るような真似はしたくなかったが、テオドールが次に何かを仕掛けてくる可能性は高い。
そこでリーシェは、アリア商会に提出する爪紅の試供品を作る傍ら、侍女のことを調べ始めた。
特に新入りの侍女たちは、アルノルトがリーシェのために市中から集めた少女たちだ。
素性は厳重に調べられ、親族に犯罪者がいないことなど徹底的に洗われていたようだが、ひとりだけ不自然な経歴を持っている侍女を見つけた。
それが、エルゼだったのだ。
新人の侍女たちは、みんな貧しい家の子たちではある。しかし、貧民街という極貧の地区からやってきたのはエルゼだけだ。
推薦状を見ると、貧民街に近い教会の名前が出ていた。
貧しい少女が、慈善事業を行っている教会に仕事の斡旋をされるというのは、何もおかしな話ではない。
でも、ならば、どうして貧民街から来たのがエルゼひとりだけなのだろうか。
感じたのは、ほんの些細な引っかかりだ。
しかし、確証がないからこそ、結論は出さなくてはならない。
エルゼは優しい子なのだから、もし諜報のようなことをさせられているのであれば、解放してあげたいとも考えた。
だから、体調を崩したこの機会に、エルゼを呼んでほしいと騎士に伝えたのだ。
それをきっかけに何か動きがあれば、エルゼと話をしようと思っていた。
だが、応接室に駆けつけてくれたエルゼは、泣きそうな顔をして言ったのだ。
『安心してくださいリーシェさま。リーシェさまのことは、何があっても、絶対にお守りします。……絶対に、絶対に……』
小さな体は震えていた。彼女はきっと、自分の『依頼主』を裏切る覚悟をしてくれていたのだ。
そして意外だったのは、残されたもうひとりの騎士が、エルゼに倣って発言したことだった。
『リーシェさま、自分も貴女をお助けします。……先ほど聞かせて下さった貧民街を救うための施策、自分は心から感動しました。このエルゼと共に、貴女さまを責任持って医者の元まで送り届けます』
『……』
リーシェはぐらぐらする意識の中で、思い出した。
彼は以前、この国に来る道中で盗賊に襲われ、痺れ毒に侵された騎士だ。
リーシェが解毒をしたあと、アルノルトが教えてくれた。彼は貧民街出身の人間で、努力して騎士になったのだと。
『エルゼ、俺たちはどんな罰でも受けよう。リーシェさまをお助けするぞ』
『分かってます。リーシェさま、待っていてください。もうすぐ……』
『いいえ。――お願いが、あるわ』
ふたりの決意を遮って、リーシェは言った。
『もしもあなたたちが、テオドール殿下に何か命じられているのなら、そのまま従ったふりをしてほしいの』
『……な……』
『リーシェさま、どうしてそれを』
驚くふたりの顔を見れば、リーシェが確かめたかった真相は明白だ。
『テオドール殿下からの指示を教えてくれる? エルゼ』
『……隙を見て、リーシェさまをどこかに監禁するようにと。それと、危害は加えてはならないと、言われました』
そんな注文がついていることを意外に思っていると、エルゼが深く頭を下げた。
『本当にごめんなさい、リーシェさま。どんな罰も、お叱りも受けます』
『リーシェさま! 自分はともかく、エルゼに罪はありません。エルゼには貧民街の事情もあり、テオドール殿下のご命令に背くわけにはいかなかったのです』
騎士のカミルは苦しそうな表情で、こう話す。
『テオドール殿下は、貧民街に個人的な支援を続けて下さった方です。あの区画の住民は殿下のためならなんでもするでしょう。命令に背いたとあれば、一族郎党が白い目で見られ、狭い街の中でも迫害される。エルゼは逃げることが出来なかったのです』
『カミル。それは、あなただって同じ』
『俺は騎士になり、家族を連れてあの街を出ることが出来た。それでも今回の命令を受けてしまったことは、未来の皇太子妃殿下に対する大罪だ』
リーシェはふたりのやりとりを聞いて、口を開く。
『これ以上の話は、後にした方が良さそうね。とりあえず、いまは行きましょう』
『行く、とは……』
『もちろん。テオドール殿下のお言い付け通り、監禁をされに』
その瞬間、エルゼとカミルはぽかんとした。
リーシェは頭痛を我慢しつつ、先ほどまでタリーとの商談に使っていた紙を裏返すと、そこに一筆したためる。
『――礼拝堂での続きを、お話しして参ります』と。
これでアルノルトにだけは、おおよその顛末が分かるだろう。
およそ一週間前、礼拝堂へ呼び出されたことは、アルノルトの記憶にも新しいはずだ。
こうしてリーシェは城を抜け出し、皇都の外れにあるこの建物に籠もったのだった。
***
(書き置きを残してきたことで、アルノルト殿下には、私が自分の意思で城を出たと伝わったはず。そしてテオドール殿下は、無事に監禁が成功したとお考えになっている。……これなら双方とも、エルゼたちにお咎めを下すことはないでしょう)
狙いを定めた場所へピンを押し込むと、重い感触が伝わってくる。そのまま上に跳ね上げれば、がちゃりと開錠の音が聞こえた。
リーシェは立ち上がり、少しだけ扉を開ける。すると外から、男たちの話し声が聞こえてきた。
「しかし、ご令嬢の見張りにこんな人数が必要なのかね。テオさまのご命令だから従うが、正直なところ三人もいれば十分じゃねえか?」
「なんでも中のお嬢さんは、剣の心得があるって話らしい。テオさまは女が逃げ出す心配ってよりも、俺たちの心配をしてくださってるのさ」
「鍵も掛けてるんじゃ、出てきようがないだろうに。この廊下に五人、二階に六人、一階と外に十人だろ? いくらなんでも……ぐあっ!?」
扉を一気に開け放ったリーシェは、男の膝裏に蹴りを入れた。
バランスを崩して膝をついた男の首裏へ、鞘に納めたままの短剣を振り下ろす。小さな呻き声が上がり、男はばったりと廊下に倒れ込んだ。
「な、なんだ!? 何が起きた!!」
「おい、女が出てきたぞ!!」
「馬鹿な、鍵はちゃんと掛けて……」
「とにかく押さえ込め!! 手荒なことはするなと言われていたが仕方ねえ、縛り上げるぞ!!」
残る四人のうち、ひとりが掴みかかってくる。
リーシェはひゅっと身を屈め、肩口に伸ばされたその手をかわすと、そのまま男のみぞおちに肘を叩き込む。蛙の潰れたような悲鳴が上がり、男が数歩後ろによろけた。
「う、ぐう……」
(浅い)
自分の一撃を冷静に分析し、リーシェ自身も後ろに引く。大きく一歩後ろに下がり、間合いを取った。
やはり、いまのリーシェには筋力や体力がなさすぎる。
(この体で体術を使うなら、相手の力や重力を利用しないと駄目ね)
そんなことを考えながら、目の前の相手に向き合った。
事態をようやく察知した男たちが、慌てて各々の剣を抜く。こちらは鞘をつけたままなのに、随分な話だ。
「申し訳ありません。どうか、そこを通していただけませんか」
「気をつけろ! この女、そこそこやるみたいだ!」
「馬鹿言え、四対一だぞ! 一斉に斬りかかるんだ、絶対に逃がすな!」
丁重に頼んでみたものの、男たちが聞いてくれる様子はない。それどころか号令と共に、全員でリーシェに襲いかかってきた。
狭い廊下の中で、そんな戦い方は論外だ。
リーシェは短剣を構えると、突進してきた刃を右に弾いた。
たったそれだけの一撃で、男の握っていた剣が吹き飛ぶ。闇雲な力で振り回される剣は、ある一点を突いてやれば、反動によって容易く手から離れるのだ。
飛ばされた剣が扉に刺さり、呆気に取られた男の腹へ短剣の柄を叩き込んだ。
「かは……っ」
リーシェがそのまま男を突き飛ばせば、残る三人が慌てて避ける。その隙を狙い、ひとりの懐に飛び込んで、顔面を鞘付きの短剣で薙ぎ払った。
眉間は人体の急所だ。強く打つと最悪の場合は死に至るのだが、いまのリーシェの力であれば問題ない。男は悲鳴を上げるまでもなく、盛大に倒れる。
「な、なんなんだお前は!? これのどこが、ちょっと剣をかじっただけの、ただの令嬢なんだ……!」
「くそっ。なめやがって……!」
ひとりが右手で剣を振り降ろす。それを避けた瞬間、真横から刃が迫ってきた。
(両手剣!)
短剣を構え、それを受け止める。鈍い感触と共に、リーシェの手が淡く痺れた。
(だけど……)
アルノルトの剣を受けたときに比べれば、少しも重さを感じない一撃だ。
リーシェはすかさず短剣を引き、くるりと身を翻すと、その回転の力を利用して足を振り上げる。
「があっ!!」
靴の踵が、男の顔面に思いっきり入った。
「う、嘘だろ……」
最後に残された男が、こちらを見て怯えた声を上げる。
リーシェは男に構う様子もなく、自分が手にした短剣を鞘から抜いた。これまで封じられてきた刃が露わになり、男が慌てて剣を構え直す。
しかしリーシェは、剣を男に向けるのではなく、自身のドレスの裾を摘まんだ。
そして右の側面に短剣を突き立てると、びーっと音を立てて裾に切り込みを入れる。呆気に取られている男を前に、リーシェはとても満足した。
「これで、少しは動きやすくなったわ」
「な……っ!?」
やはり、ドレスで立ち回りをするものではない。当たり前の事実なのだが、しみじみとそれを噛みしめる。
「お待たせしました。続きをする前に、もう一度お聞きします」
「く、くそ……」
「退いていただく訳には、参りませんか?」
短時間とはいえ仮眠を取って、飲んだ薬も効き始めた。誤魔化しではあるものの、リーシェの体は復調している。
戦わずに済むのなら、それに越したことはないのだ。しかし男はわなわなと肩を震わせながら、リーシェに向かってくる。
そうなれば、こちらも応じるしかない。
***
(……さっきの話では、二階に六人、一階と外に十人だったわね)
五人の男たちを昏倒させた廊下で、リーシェは考える。
そして、そっと階段を下ったのだった。廊下には、男たちの呻き声が響いていた。