34 循環する黄金
エルゼから数枚の書類を受け取ると、リーシェは侍女たちを応接室から下がらせた。
「それでは……」
「リーシェさま。僭越ながら、私めから先にご忠告を」
タリーは制止を促すように片手を上げ、にやりと笑った。
「本当に、余計な提案など付け加えてよろしいのですか? あなたさまの商品は素晴らしい。『貴族向けの高額商品として売り出す』という販売戦略に同意いただけるのであれば、その時点で合格とさせていただきますが」
「いいえ、会長」
リーシェは彼に向き合い、はっきり告げる。
「このまま、お話を続けます」
「――お聞かせ願おう」
頷いて、手元にある書類のうち一枚をタリーに差し出した。
「まずこちらは、ガルクハイン国の給金に関する取り決めです。三年前、この国には『最低賃金』というものが制定されました」
「ほお、面白い」
タリーは興味深そうに、リーシェの書き出した内容へ目を通す。
「なるほどねえ。雇い主はどんな労働者に対しても、この金額を上回る給金を払わなくてはならない。それに反した者は罪人ですか」
リーシェは頷いた。
「ガルクハイン国ではこの施策が出来て以来、『どれだけ働いても生活できない』ということはなくなり、安定した収入を得られるようになりました。そのことが、国の豊かさに拍車を掛けたのです」
「ただしその恩恵に与れるのは、働き口を得られたものに限る、と」
「……その通りです」
タリーの言葉は的を射ている。
アルノルトの出したこの施策により、労働者の収入は増えた。
しかしその分、ひとり当たりに支払わなくてはならない給金は増し、雇い主側の支出が増える。
雇い主の方は、雇う人員を最低限に抑えるようになった。
その結果、『どれだけ働いても食うに困る』というケースは減ったが、『働く場所がなくて食べられない』層は未だに存在するのだ。
「続いては、こちらをご覧下さい」
リーシェは二枚目の書類をタリーに見せる。
「材料の仕入れ先や、製造のための工房。流通経路など、大量生産のために必要な情報はすべて集めて参りました。見ての通り、製造に関する費用はかなり安価に抑えることが出来ます。――人件費以外は、ですが」
「……やれやれ」
タリーは身を乗り出すと、自身の膝に頬杖をついた。
「仰りたいことは読めてきましたが、一応続きをお聞きしましょうか。ここまでお膳立てをいただいて、我々に何を命令なさるおつもりで?」
「働き口がなくて困り果てている、貧民街の方々の採用を」
リーシェは背筋を正したまま、こう続ける。
「これをお約束いただける場合にのみ、この商品の技術を提供いたします」
「……」
タリーの目から、どこか好戦的だった光がふっと消えた。
「これはまた、ご立派なことで」
彼は深く溜め息をつくと、冷めたまなざしでリーシェを見た。
「だがな。……あんたにはがっかりだよ、リーシェ嬢」
「ケイン・タリー! この国の皇太子妃となられるお方に対し、なんという無礼か!」
「いいえ、構いません」
いつもは朗らかな騎士たちを止め、改めてタリーに向き合う。
「この案でも、商会の利益は十分に出るはずです。貴族向けにするよりは劣るでしょうが」
「俺のような強欲商人は、それじゃあ満足できないんでね。商いでなく施しをしたいんであれば、俺が聖職者に転職するまでどうぞお待ちを」
それは、想像していた通りの答えだった。
タリーは他人に冷たいわけではない。だが、商売への美学を掲げているのだ。
だからこそ、リーシェは告げた。
「これは施しでなく、商いのお話です」
「……なんだって?」
タリーが顔をしかめる。
他の幹部たちも、理解が出来ないという表情だ。
「昔、ある人が言っていました。『一流の商人は、客を選べる』と」
かつてその言葉を教えてくれた本人は、難しい表情のままリーシェを見ていた。
「私もつい先日知ったことなのですが、ガルクハイン国では終戦後、莫大な国費を投じて貧民層への投資を行ったそうです」
「その話なら知っていますよ。確か、皇太子殿下が施策なさったのでしたか? 多くの国民が救われて豊かになったとかで、商人のあいだでも話題になった」
「はい。ですがもし殿下がその施策を取らず、皇族や貴族だけが私腹を肥やしていたとすれば、民は飢えていたでしょう」
商人人生で、リーシェは世界の各国を回った。
中にはガルクハイン国のように、戦勝国側に属する国もあったが、それらがみんな豊かだったわけではない。
下手をすると、負けた国よりもずっと貧しくなってしまった国すらあったのだ。
「消費が低下すると、経済が滞ります。そうなると働き手は仕事がなくなり、また貧しくなる。その循環が起きてしまえば、民の納める税金で生活する皇族や貴族だって、運命共同体でしょう」
すると、タリーは皮肉っぽく笑った。
「つまりあんたはこう言いたいのか? 『財をひとつところに留めていても、決して豊かにはなれません。なれば貧しい人にも分け与えましょう』と」
「いいえ。もう少しだけ、あなた好みの言い方を」
リーシェはにっこりと笑うと、タリーに告げた。
「会長。――お客さんを選ぶのではなく、これから、我々の手で作り出しませんか?」
「……!」
その瞬間、彼が目をみはる。
リーシェはそのまま言葉を続けた。
「貧民街に住まう人々は、多くの商人にとって『客』にはなり得ないでしょう。なにせ彼らは日々、食べていくだけで精一杯なのですから」
つい先日、エルゼが話してくれたことだ。
彼らに余剰の物を買う余裕はなく、満足な食事さえ出来ない日もある。
リーシェも過去の人生において、仕事が軌道に乗るまでは食べるのに困ったときもあった。
「ですが考えてみてください。彼らに仕事が与えられ、明日への不安なく生きていけるだけの収入が得られれば、市場は一体どうなります?」
「……それは……」
「いままでお客さんではなかった人が、仕事を得ることでお客さんになる。顧客の母数が増えることで、商人の売り上げが上がる。その循環が最終的には、商会の大きな利益に繋がっていくはずです」
人差し指でくるんと輪を描いて、リーシェは微笑んだ。
「アリア商会の品は、どれも素晴らしいものですから。市場にお客さんが増えたら、一番儲けを出すのはアリア商会になりますよ」
「……は」
その瞬間。
いままで冷めた目で話を聞いていたタリーが、大きな声で腹から笑った。
「ははっ、ははははは! 気に入った、気に入ったよ!! つまりあんたはこう言いたいわけだ。『客を選ぶな、客へと育てろ』ってな!!」
「最初はごく少数かもしれません。ですが事業を広げていけば、貧困から抜け出せる人は増えていくはずです」
「そうすることでガルクハイン国の税収も上がる。未来の皇太子妃どのにとっても、利益に繋がる話ってわけですか」
身も蓋もない言い方だが、おおむね間違っていない。
リーシェは最初、商人としてタリーの課題をこなそうとしていた。
利益が出て損失が少ない、そんな商いを提案できればと考えていたのだ。
しかし、アルノルトの行った施策を知り、その方針に迷いを抱いた。
確信したのは、エルゼの想いを聞いてからだ。
きっとリーシェが行うべきは、商人としての商いではなくて、皇太子妃としての商いだった。
国家に利益と繁栄をもたらし、人々の豊かさに繋がるもの。
その豊かさとは、ただ困らずに食べていけるというだけではない。
いだいた憧れや夢を捨てずに生きていける、そんな希望も含んだものだ。
「これが正解だとは思いません。それでもいまの私が提案できる、数少ない手段です」
「いいや、悪くないぜ? 俺の考えや信念が見透かされたみたいで、なかなかに楽しかった」
先ほどまでの退屈そうな顔から一変し、タリーはひどく嬉しそうだった。
「だがリーシェ嬢。あんたはまだ、未熟だな」
この笑顔には覚えがある。
商人人生で、部下だったリーシェが失敗するたびに、タリーが浮かべていた笑みだ。
「前も言っただろう? 一介の商人を相手にするには、あんたの振る舞いは切実すぎるんだよ。そういうやつは足下を見られ、見透かされ、利用される」
「……ご忠告、ありがとうございます」
「理由は分からねえが、あんたはよっぽどうちの商会が欲しいらしい。俺はその執心を利用して、ギリギリまで搾り取ってやろうと企み始めたところだ」
『会長の悪い癖が出た』と、幹部たちが呆れた顔をする。もちろんリーシェも内心は、同じことを考えていた。
「おい会長。相手は皇太子妃さまだぞ、もうやめとけって」
「さあどうする? あんたの提案した商いには、難癖を付けるポイントがざっと百以上はある。却下して別の案を持って来させれば、さらに美味い話が出てきそうだが……」
「……」
リーシェはゆっくり目を瞑った。
「私ごときの商談を、あなたが手放しで認めて下さるとは思っていません」
「ほう。数回しか会ったことがねえのに、俺のことをよく知っててくれて嬉しいね」
「……出来ることなら本当は、この手を使いたくなかったのですが」
溜め息をついて、最後の書類を差し出す。
「おっと。次は何が飛び出してくるのか、な……」
その瞬間、タリーの目の色が一気に変わった。
「……これは」
「会長? 一体どうしたんだ?」
焦燥と動揺が、彼の表情に表れる。
これまで常に飄々としていたタリーは、慌てて口を開いた。
「リーシェ嬢。何故あんたが、このことを知っている」