291 サファイアとダイヤモンド
「……ふふっ」
目を細めたフロレンツィアが、扇子で口元を隠したまま、その華奢な肩を震わせて笑った。
「ふふふ、ふ、ふふ……っ!」
その笑い声に、怒りのようなものは感じ取れない。
けれど、それが何処までフロレンツィアの本音であるのかを、鵜呑みにする訳にはいかないだろう。
「――ああ、本当に、なんて興味深い子なのかしら!」
ぱちん、と扇子が閉じられる。
フロレンツィアは、甘えるような仕草で首を傾げた。
「あなたの言葉はもっともだわ。危ないものを片付けさせてしまって、ごめんなさい」
「いいえ。陛下にお怪我がなくて、安堵いたしました」
リーシェは心からそう告げつつ、砕けたティーカップをハンカチに包む。
(本当は、ティーカップの破片どころではない武器を隠し持っている身だけれど)
秘密はドレスの裾に隠したまま、再びフロレンツィアの向かいに座る。
リーシェのカップに残ったお茶は、すっかり冷めてしまったようだ。それなのに、優秀な侍女たちがやってこないのは、人払いをされているからだろう。
「私は、ガルクハインに仇をなすつもりはございません。フロレンツィア陛下」
先ほどの問い掛けを、リーシェは改めて否定する。
「私がこの人生に望むのは、のんびりごろごろ自由に生きる、とても怠惰な生活なのです」
「あらあら、そうなの? 商会をこの国の事業に引き入れ、皇太子を大神殿に連れ出して、コヨル国やシグウェル国の王族とも親交を始めたお嬢さんが」
リーシェがこの国に来て取った動きを、フロレンツィアは把握している。
数ヶ月の間、一度も彼女からの接触が無くとも、やはりずっと監視されていたのだ。
「今更、『皇帝の正妃』に会いに来たのは何故?」
「…………」
柔らかな微笑みの中に、リーシェを見定めるまなざしが混ざる。
(商人の人生で浴びた値踏みでも、狩人の人生で感じた警戒でもない。騎士の人生に受けたような、敵を計り知るための観察とも違う)
フロレンツィアの問い掛けからは、張り詰めるような緊張感とは相反して、少しの敵意も感じないのだ。
(たとえるならば、神判だわ。怒りや処罰感情とは程遠い、もっと高位の存在から、裁きを与えるために尋ねられている……)
リーシェは小さく息を吸う。
(それなら、真実を答えるだけ)
真っ向からフロレンツィアを見詰め返して、こう告げた。
「――アルノルト殿下のことを、教えていただけませんか?」
「…………ふうん?」
フロレンツィアの双眸に、かすかな『興味』の色が見える。
「フロレンツィア陛下がガルクハインにいらしたのは、アルノルト殿下が四歳の頃。そんなに幼い頃のアルノルト殿下をご存知でいらっしゃるのは、ごく限られたお方だけですから」
「不思議ね。どうしてそんなことが知りたいの?」
「それは勿論……」
リーシェは微笑みを消した代わりに、真摯な想いで口にした。
「アルノルト殿下を、お慕いしているからです」
「――――……」
フロレンツィアが、静かにリーシェのことを見据える。
彼女の胸元に輝くダイヤモンドが、星のようにきらきらと瞬いた。けれどもフロレンツィアの視線は、リーシェの手元に注がれる。
「……あなたの、その指輪」
フロレンツィアの言葉に、リーシェも自身の左手を見下ろした。
「綺麗なサファイアね。誰の瞳の色か、すぐに分かる」
「……フロレンツィア陛下」
「私にも、欲しいものがあったの。皇帝陛下にもねだれなくて、宝石よりもずっと得難い……」
フロレンツィアはにこりと笑い、お茶会の席から立ち上がった。
「――気分が悪くなったわ」
笑顔のままで言い放たれたのは、明確な拒絶だ。
「出直していらっしゃい、花嫁さん。……私の欲しいものを当てられたら、幼少の砌のアルノルト殿下と、とある『お姫さま』のことを教えてあげる気になるかも」
「それは、もしかして……」
「そうね」
フロレンツィアはくすっと笑い、まなざしを空の方へと向けた。
「あそこに見える塔の中なら、ゆっくり話せるわ」
「…………!」
主城の傍らに聳え立つのは、皇帝アンスヴァルトが妃たちを住まわせていたという塔だ。
(アルノルト殿下が育った場所。……『巫女姫』である母君を、殺めた塔……)
リーシェが何処まで知っているのか、フロレンツィアにはきっと、この反応で見透かされた。
フロレンツィアは、そのことを敢えて推測させるような表情でリーシェに告げる。
「それではね。……婚姻の儀に参列はしないつもりだけれど、応援しているわ」
そしてリーシェは、こちらに背を向けて歩き始めたフロレンツィアを、見送ることになるのだった。
***
「――さあさあお客さん、見て行って!」
ガルクハイン皇都の市場は、いつもと違った活気に溢れている。
石畳の大通りに並ぶのは、華やかな飾り付けを施した屋台だ。商人たちが通行人を呼び込む声も、店先を覗き込む国民の表情も明るく、皆どこか浮き足立っていた。
「もうすぐこの国の皇太子さま、アルノルト殿下の結婚式だ! めでたい日に飲む酒の準備は十分かい? ほら、これなんかお勧めさ!」
「こっちは祝い菓子だ。奥方さまの出身国、エルミティ国の国章を模した形だよ!」
正午近くの賑わいの中、リーシェは灰色のローブに身を包み、身分を隠して歩いている。
みんなが祝おうとしてくれているのは、自分たちのための式典なのだ。それが落ち着かないような、現実味がないような心境を抱きつつも、隣を歩く少年を見上げた。
「私のお忍びに付き添ってくださって、ありがとうございます。テオドール殿下」
周りに聞こえない小さな声で、未来の義弟にお礼を告げる。
「お陰でこうして、アルノルト殿下から外出の許可も下りました! 殿下は今頃、ご公務の会食でいらっしゃるので……」
「べ、別に……!?」
黒のローブを纏ったテオドールは、飴で固めた果物の串を齧りつつ、ぷいっとそっぽをむいてしまった。
「僕が居ても居なくても、お忍びくらい許可されるでしょ。義姉上はひとりで誘拐されても大丈夫だって、兄上はよくご存知だし……」
確かにアルノルトは普段、リーシェがやりたいと望むことを、なんでも許してくれる婚約者だ。
それでもそんな中で唯一叱られてしまうのが、リーシェに危険が及んだり、健康を害してしまう行いなのだった。
「本来なら、お忍びのときは『必ずアルノルト殿下と一緒に』という約束でして」
出会ったばかりの頃、リーシェがひとりで城下に出たのが見付かった夜に、『今後は必ずアルノルトが同行する』という約束になった。
しかし今回は、テオドールとその護衛が同行すると相談したところ、沈黙の後に『分かった』と承諾されたのだ。
(本当に、お許しいただけて良かったわ。……この外出はどうしても、アルノルト殿下がご不在の間に、すべてを終わらせなくてはならない)




