290 恐れながらも申し上げます!
本日12月28日は、アルノルトの誕生日です!
アルノルトの率いる軍勢によって、リーシェの守るべき国が蹂躙された。
王は討たれ、目の前で両親を喪った王子たちを逃がすために、なんとしても守らなければならなかった。
あのときリーシェが狙ったのは、アルノルトの首と心臓である。
けれど、そんなことを顔に出すつもりは毛頭ない。
(フロレンツィア陛下は、本当に『アルノルト殿下を殺したいか』とお尋ねになりたい訳ではないわ。なんらかの意図をお持ちの上で、私にこの刃を突き付けた)
フロレンツィアは相手を見定めている。
どうすれば効率的に他者を揺さぶり、自分の望む結果が得られるのか、それを奥底まで見通しているのだ。手のひらに乗せ、指先でつついて、美しく鮮やかに微笑んでいる。
それならば、リーシェの返し方は決まっていた。
「……三ヶ月前、故国で初めて殿下とお会いしたあのときから、とても大切にしていただいています」
リーシェはカップをテーブルに置いて、膝の上にそっと両手を重ねる。
口にするのは、心からの言葉だ。
「『求婚の日から』今日までの間、アルノルト殿下に無体を働かれたことも、ひどい意地悪をされたこともございません。……やさしすぎて、怖くなってしまうくらいに」
少しだけ目を伏せて、彼の指に触れられる瞬間を思い出す。
リーシェが泣いてしまったとき、アルノルトは親指でまなじりを撫でて、泣くなと願い、あやしてくれた。
アルノルトのことが、リーシェはとても愛おしい。
「アルノルト殿下に二心を抱く、そのような動機すら持ち合わせておりません。私があのお方を殺めたいと、そう希うことがあるとしたら、たとえば」
フロレンツィアは、アルノルトの幼い頃を知っている。
(私に、こんな疑念を抱かせたいのだわ。このお方も……)
アンスヴァルトとザハドに問われた言葉を思い浮かべながら、リーシェは挑むように微笑んだ。
「『実は殿下と求婚以前に出会っていた』と、そんな事実が隠されていた場合でしょうか」
「――――……」
フロレンツィアが、その双眸を僅かに眇める。
彼女のささやかな変化を前に、リーシェはすぐに冗談を翳した。
「なんて。有り得ない仮定を想像する遊びは、胸が躍りますね」
「……ふふ」
フロレンツィアは、機嫌が良さそうにくちびるを動かす。
「やっぱりあなた、楽しい子ね」
「まあ。勿体無いお言葉です、陛下!」
その鮮やかな笑みすらも、場の空気を掌握するための武器なのだ。
リーシェは再びカップを手に、敢えて素知らぬ顔をする。
「先ほどのご質問は、戯曲か何かの一節ですか? 何らかの比喩表現だと分かっていても、どきどきしてしまいました」
「驚かせたかしら。だけど、あなたのような目をした子には、取り繕う意味があまり無いものだから」
フロレンツィアは、美しい所作でお茶を飲み干す。
「私ね」
そして、柔らかな声で言った。
「この国に嫁いですぐ、自分の子は成さないと決めたの」
その言葉に込められた意味を測るため、リーシェは静かに傾聴する。
「もちろん故国は、私が皇位継承権を持つ男児を産み、ガルクハインに於ける地位を盤石にすることを望んだ。けれど、無意味でしょう?」
「無意味、とは……」
「だって一目で分かったわ。……幼い子供とは思えない聡明さ、素養と胆力。その振る舞いのすべてが、物語っていたもの」
フロレンツィアのまなざしが、リーシェのことを真っ直ぐに射抜いた。
「――アルノルト皇子以外の『次期ガルクハイン皇帝』など、存在しない」
「…………」
アルノルトが皇帝の後継者、つまりは皇太子であることに決まったのは、フロレンツィアが嫁いだ後なのだ。
彼女が口にした『皇子』という呼び方に、リーシェはそれを窺い知る。
「だからこそ、正妃である私が他に男の子を産めば、複雑な問題が出てくるでしょう? 争いの火種を消すためにも、母にはならないことを選んだわ」
(……本来なら)
フロレンツィアが簡単に口にした事実は、とても考えられないことだ。
(アンスヴァルト陛下の『人質』である花嫁に、そうした選択権は与えられない。……フロレンツィア陛下だけは、規格外だということ)
ガルクハインに並ぶ軍国の、王女だった女性。
フロレンツィアは優雅に微笑み、リーシェに告げる。
「代わりに私が果たすべき役割のひとつは、城内の平穏を監視すること。たくさんの人を見てきたから、ここをめちゃくちゃにしちゃいそうな女の子が嫁いでくれば、すぐに分かるのよ」
空になったティーカップを、美しい指先が摘み上げる。
そうしてフロレンツィアは、その手を宙で離すのだ。
「あなたはきっと……」
「!」
ぱりん! と高い音が響く。
「この国を傾かせてしまえる、そんな花嫁だわ」
(あ……)
石畳に落ちたティーカップが、呆気なく割れて転がった。
それを見下ろしたリーシェの向かいで、フロレンツィアはゆっくりと扇子を広げる。
「誤解しないでね。私、傾国を悪いことだとは言っていないの」
フロレンツィアの胸元で、眩い光が瞬いた。
その光は、周囲のあらゆるものを飲み込んでしまいそうなほどの輝きを放つ、大粒のダイヤモンドによるものだ。
「だから聞かせて。望んでいることは何かしら? 可愛らしくて、恐ろしいお嬢さん」
「……陛下」
「私に出来ることならば、叶えてあげたって構わないのよ」
リーシェは、ゆっくりと立ち上がる。
「……それでは、お言葉に甘えさせてください」
「いいわ。なあに?」
「いまの私が欲しいものは……」
ドレスの裾を束ねながら屈み、にこりと笑ってフロレンツィアに告げるのだ。
「こちらの割れた、ティーカップです!」
「………………」
ぱちりと瞬きをしたフロレンツィアが、その笑顔を初めて少しだけ崩す。
「……なんですって?」
「早速こちらを頂戴しますね。続いてお許しいただけるのならば、恐れ多くも陛下に進言させていただく栄誉を」
リーシェは大きな破片の上に、小さな破片を重ねてゆく。後で誰かが怪我をしないよう、慎重にすべてを拾い集めた。
「このように物を壊してしまわれる演出は、お勧め致しかねます。せっかく武器の持ち込みを禁じられ、陛下の安全が保たれている場所ですのに……」
立ち上がり、大きな破片を一枚選ぶ。
そしてリーシェは、その尖った一角が分かるよう、自身の前に翳してみせた。
「――このような『凶器』を、ご自身で作り出されるなんて」
「…………」
人を傷付けられる欠片を手に、リーシェはにこりと微笑んでおく。
心の中に満ちるのは、フロレンツィアへの大きな不服だ。
(私への警告をするために、美しいティーカップを壊す必要などなかったわ!)
端的に言えば、リーシェは少し怒っている。
それは、フロレンツィアからの尋問めいた問い掛けにではなく、カップがわざと割られたことにだった。




