289 お会いすることが出来て嬉しいです!
「――あらあら、可愛らしいお嬢さん!」
「!」
フロレンツィアの浮かべた微笑みに、辺りの空気が華やいだ。
リーシェより少しだけ背の高いフロレンツィアは、黒いレースの手袋をつけた両手で、リーシェの左手を包み込む。
「初めまして、フロレンツィア・アンヌ・ハインよ。こうしてお会いすることが出来て、幸せだわ」
彼女の纏うその空気は、他者を安心させるように朗らかで、暖かいものだ。
リーシェの指先に目を留めると、フロレンツィアは可憐に笑い、少し茶目っ気のある口ぶりで言った。
「これが噂の爪紅ね? 指先に、宝石を纏わせているかのよう」
「陛下がご存知でいてくださったなんて、光栄です。この品が完成した暁には、是非ともお好きな色をお贈りさせてください」
「まあ! ありがとう、すごく楽しみだわ」
フロレンツィアの首飾りが、陽の光を受けて虹色に瞬いた。
小さなダイヤモンドをいくつも連ね、それをレース編みのように連ねた造りだ。
最下段の中央に揺れる大粒のダイヤモンドは、光そのものを集めて閉じ込めたような、鮮烈な輝きを放っている。
それが、眩しすぎるほどに美しかった。
「さあ座って、早速お茶にしましょう。リーシェちゃんが会いたがってくれていると聞いたから、ついつい張り切ってしまったの」
その言葉に、リーシェはにこりと喜びを示した。
「ありがとうございます。突然お呼び立てしてしまったにも拘わらず、このようなおもてなしをいただいてしまい……」
「いいのよ! アンスヴァルト陛下がお忙しくて、午前中は退屈なことも多いのだから」
フロレンツィアに促され、リーシェは中庭のテーブルについた。
白の円卓には、すでに準備の整ったティーセットが並んでいる。少し離れた場所に控えていた侍女たちが、会話を決して遮らないよう、静かに支度を進めていたのだ。
(完璧な仕事だわ。これが、ガルクハイン国皇后陛下の専属侍女)
リーシェが侍女のふりをしているときも、彼女たちと顔を合わせたことはない。
恐らくは、フロレンツィアの身の回りだけを担当している、選りすぐりの侍女たちなのだろう。
(庭園の随所にも、細やかな手入れが施されている)
リーシェが視線を向けたのは、この中庭に面した主城の一画だ。
その壁面には、瑞々しい緑の蔦が張っている。恐らくはこの蔦が、八の月の強い陽射しから窓辺を守り、城内に涼をもたらしているのだろう。
(なのに……)
「婚姻の儀の直前で、忙しいでしょう?」
カップにお茶が注がれる間も、リーシェの向かいに座ったフロレンツィアは、にこやかに会話を続けてくれた。
「それなのに、こうしてゆっくり会える時間を貰えて嬉しいわ。リーシェちゃんと、早くお喋りをしてみたかったの」
「勿体無いお言葉。ですが私も、陛下とたくさんのお話を出来たらと願っていました」
「ふふ! これが午後の会なら、侍女にケーキでも焼かせたのだけれど……とはいえ、婚儀の前にたくさん食べるのは抵抗があるでしょうから、今日はお茶を味わう会ということにしましょう」
「はい! いただきます」
少しだけ冗談めかしたフロレンツィアの言葉に、リーシェも笑って頷いた。
(皇妃というお立場であらせられながら、私にこんなにも優しく接してくださる。お話しをしているだけで、自然と心が溶けていくようだわ)
「それにしても」
フロレンツィアはさり気なく侍女を下がらせて、自身のカップとソーサーを手にした。
「アルノルト殿下がご結婚を決められたと聞いて、私も本当に驚いたの。けれど、こんなに素晴らしいお相手に出逢われたのであれば、無理もないわね」
(ゆっくりとした話し方に、明るい声音。私を歓迎していると、すべての所作で示されている…………けれど)
心の中で考えながら、リーシェは首を横に振った。
そして、同じくカップを手に取る。
「滅相もございません。今後は陛下のお姿に学ばせていただきながら、この国のお役に立てるように励んで参ります」
「あら、そんなに気を張らないで? それにあなた、そもそもが……」
フロレンツィアが目を伏せて、それでもにこやかなまま口にする。
「――誰にも言えない目的があって、嫁いで来たでしょう」
「…………」
リーシェは微笑みを浮かべたまま、先ほどまでの感覚に確信を抱いた。
(やっぱり)
フロレンツィアのまなざしは、柔和でありながら真っ直ぐに、リーシェのことを見据えている。
(にこやかな表情や、人を安心させるお話しの仕方も。ご自身のことを開示しながら、相手への質問を織り交ぜて、それでいて回答には窮しないような話題選びも)
加えて多少の冗談や、上品な仕草での触れ方も。
(すべてが計算し尽くされた、社交という人心掌握術。――そして私は、『判別』された)
フロレンツィアが纏う空気は、最初からずっと張り詰めている。
リーシェがそれを感じ取れるのは、商人の生き方を学んだあとに、狩人と騎士の人生を経験したお陰だ。
「……そのようなお言葉をいただくのも、無理はありません」
リーシェは微笑みを消さないまま、寂しさを少しだけ滲ませる。
こうした振る舞いを返すことが、フロレンツィアに招かれた社交の舞台で、何よりも大切な初手だからだ。
「私は小国の出身であり、王族の遠縁でしかない身の上。明らかに不釣り合いな立場を自覚せず、アルノルト殿下に嫁ごうとしているのですから」
「ふふっ」
リーシェが同じ場所に上がったことで、フロレンツィアの機嫌が変わったようだ。彼女はくすくすと肩を揺らして、上品に目を細めた。
「大丈夫よ、ちゃんと分かるの。これまで陛下の正妃として、たくさんの女性たちをこの城に迎えてきたんだもの」
(……このお方は……)
フロレンツィアはティーカップに口をつけ、静かにお茶を楽しみながら、なんでもないことのようにこう続ける。
「ガルクハインの犬になると、悲痛な覚悟を結んだ王女。怒りの炎を秘めたまま、それでも国を守るために諦めた王女。必死に媚びて取り入ろうとする王女も、大国に嫁げた喜びに歪む女性も大勢見て来たわ。……すべてが空っぽで、どうでもいいと虚ろな目をしていた、お姫さまもね」
「…………」
リーシェが欲しがるものが何か、フロレンツィアは試している。たくさんのケーキを切り分けて、一切れずつ振る舞うかのように。
含みを持たせた物言いは、反応を見定められているのだ。
そうした作業を、リーシェに隠すつもりもないらしい。それすらも、見透かしているということなのだろう。
「あなたは、その中の誰とも違う。……楽しそうな子」
フロレンツィアが首を傾げ、柔らかな視線でリーシェを貫く。
「アルノルト殿下を、殺めようと思ったことはある?」
「!」
リーシェの脳裏に広がったのは、騎士だった人生の光景だ。




