32 指先の宝石
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――礼拝堂の一件があった、翌日の夕刻。
離宮の小さな厨房に立ったリーシェは、忙しく動き回っていた。
厨房内に満ちるのは、調理された食べ物の匂いではない。けれども甘い香りがするので、侍女たちの興味を引いたのだろう。何人かが厨房を覗きに来たのだが、その度に驚きの声が上がった。
「リーシェさま!? この大量の花は……?」
彼女の言う通り、厨房のテーブルに所狭しと並んでいるのは、たくさんの花だった。
薔薇の花びらをむしっていたリーシェは、その問い掛けに苦笑する。花びらの端が変色したこの薔薇は、城下の花屋で売れ残っていたものを、エルゼに買い集めてもらったのだ。
「驚かせてごめんなさい。お花はちゃんと片付けるから、安心してね」
「い、いえ、そういうことではなく……」
彼女は戸惑いながら、リーシェの手元をじっと見つめる。
厨房内にあるのは、この赤い薔薇だけではない。オレンジ色のガーベラや、紫色のリンドウ。他にも色とりどりの花があり、かまどに焚べた鍋には、ピンク色の花びらがくつくつと煮えていた。
厨房に花の香りが濃く漂うのは、主にこの鍋が原因である。
「あ! ひょっとして、何か染物をなさるのですか?」
「ふふ。まだ秘密」
閃いたという顔をする彼女に、リーシェは微笑みかける。
「でも、完成したらあなたにも試してほしいわ。もちろん、嫌でなければだけれど」
「はい! よく分からないですけど、リーシェさまのお手伝いなら喜んで」
「ありがとう」
侍女は、鍋の中身が何になるのかをあれこれ予想しながら仕事に戻っていった。
絶対に正解してみせると意気込んでいた彼女だが、リーシェがテーブルの隅に置いている瓶の中身を知ったら混乱するかもしれない。そう思いつつ、葉や茎を片付ける。
(この鍋は、もう少し煮込めば良いかしら。花びらの処理は終わったし……)
リーシェは椅子に座り、瓶の下に敷いていた紙を手に取る。
それは、朝から図書室にこもり、この国に関する資料を閲覧して書き出していった情報だった。
皇都の人口分布。経済状況の推移。周辺地域の事情や、出入りする商人、旅人の情報。
そういったものを眺めながら、リーシェは考える。
(タリー会長に提示する商いの内容は、決まったわけだけれど)
約束した期限までは、あと五日だ。
こうして作っている商品のサンプルも、それまでに完成するだろう。
利益が出ると判断しえるだけの資料も、利率などの計算式もそろえてある。
朝から図書室に籠り、午後からは材料集めに奔走して、これなら問題ないという勝算はあった。
それでも、リーシェの心はすっきりとしていない。『本当にこれでいいのか』という思いが拭えないのには、とある原因があった。
リーシェは改めて、自身が書き写した文字列を眺める。
(私は、知らないことばかりだわ)
数々の資料を閲覧しながら、そのことを痛感したのだ。
資料の内容を読み解いていくと、三年前の戦争で数々の武勲を立てたアルノルトは、皇太子としての政治的な権限を獲得したらしい。
すると彼はまず、戦勝国として他国から納められた賠償金を使い、地方の農作物や特産品を高額で買い取った。
戦勝国といえども、すぐにその恩恵を受けられる国民はごく一部である。
兵士だった者や、鎧や剣などを大量に作るため必要だった鍛冶師。戦地で使う薬のための薬師など、軍需によって一時的に増えた就業者は、終戦によって仕事を失う。
職探しのためには大都市に留まる者が多いようだが、そこで仕事が見つからなければ貧民街行きだ。
地方は地方で、戦争によって人手を奪われており、戦後も職探しのために帰ってこない。
働き手がいない農村では生産率が落ち、いずれ国中で食料品が高騰する。
しかし、国が農作物や魚介類を高額で買い取ってくれると聞けば、皇都で職のない働き手たちは地方に向かうだろう。
事実、この時期の通行証記録を読んでみると、農業などのため皇都から地方に旅立った人の数は大勢いたようだ。
さらにアルノルトは、買い取った食料品を各地に流し、戦争によって困窮した人々の腹を満たした。
この政策にはそれなりの金額を投入したようだが、結果としてガルクハイン国はさらに豊かになり、生産力や出生率が増加している。
それによって税収も増し、国力は強化された。その流れが、いくつかの資料を分析するだけでもよく分かる。
(ガルクハイン国外で生きていたら、絶対に知ることがなかった事実ね)
脳裏に過ぎったのは、昨晩のことだ。
アルノルトはリーシェに向けて、こんなことを言った。
『俺の妻になる覚悟など、しなくていい』
「……」
あれはどういう意味だったのだろう。
ちゃんと尋ねなくてはいけないのに、昨夜のリーシェは何も聞けなかった。彼の見せた表情が、どこか寂しげに見えたからだ。
あの表情やまなざしを、リーシェは知っている。
(私を殺したときも、同じ表情をしていた)
聞きたいことはたくさんあった。
それなのに、背中を向けたアルノルトを呼び止めることすら出来なかったのだ。
その瞬間のことを思い出そうとして、別の記憶まで蘇る。リーシェはぎくりとしたあとで、一度俯き、そこからへなへなと机に突っ伏した。
(……絶対に、あの行為そのものに深い意味なんてない。絶対にない。だから、あれについて考えては駄目……)
しかし、こうも思うのだ。
覚悟を決めたなんて、大言壮語もいいところではないか、と。
リーシェはぎゅうっと目を瞑ったあと、椅子から立ち上がった。
そして自分の頰を軽く叩き、気合いを入れ直す。
(まずは、これを完成させないと!)
そろそろ、次の工程に移れそうだ。
リーシェはかまどから鍋を下ろすと、煮詰めた花びらとその汁をボウルに取り分けた。別の鍋を準備しているあいだによく冷まし、触れるようになったら布で水気を絞り出す。
次いで、テーブルの硝子瓶を手に取った。中に入っている透明の粘液は、この大陸で広く群生している木の樹液だ。
花から取った染料と樹液を、なるべく気泡が入らないよう混ぜていく。色むらなく均一になったら、それを小さな小瓶に移したあと、とんとんと器を揺らして気泡を逃した。
出来上がったのは、濃いピンク色の液が入った小瓶だ。
もう一本の硝子瓶を開けたリーシェは、用意していた筆をそこに浸した。
ある薬草の汁を混ぜ合わせたもので、薄い乳白色をしたそれを、爪へ丁寧に塗っていく。その上から、先ほど完成したピンク色の液を、はみ出さないように塗り重ねた。
十秒ほど経つと、その液がほわっとした熱を帯び始める。
指を使わないようにして数分待ち、爪先の方を筆の後ろで軽く突いてみると、硬い感触が伝わってきた。どうやら上手く硬化したようだ。
(これでいいわ)
両手を広げ、薔薇のピンク色に染まった爪を眺めてリーシェは満足した。硬化した樹液でつやつやと輝き、指先に宝石を纏っているかのようだ。
これは薬師人生において、色んな薬草を混ぜ合わせて新薬の研究をしていた折に得た知識だった。
広く群生するコリーニの木の樹液に、三種類の薬草の汁が合わさると、数分ほどで強固に固まる。薬師のときは、怪我人の割れた爪などを補強するのに使っていた。
あとは、薔薇以外の花を混ぜても上手く硬化するかの実験が必要だ。
そう思っていたところに、侍女のエルゼが顔を出す。
「リーシェさま。……休憩をしてくださいと、言いましたのに」
何度も声をかけてくれたエルゼは、リーシェがまだ厨房にいるのを見てむうっとくちびるを曲げた。
「お茶を淹れます。だから今度こそ、休憩をしていただきま……」
その瞬間、エルゼはリーシェの爪に気がついたようだ。言葉を止めた彼女の瞳が、満天の星のように輝く。
「……きらきら、つやつや……」
独り言のように漏らした声が可愛くて、リーシェはくすっと笑みを零した。
「ちょうどいいところに来てくれたわ、エルゼ」