285 サファイアとエメラルド
(……会話が、聞こえて、いたのかも)
北の果てにある国で、雪が止んだ日の晴れた夜に、恐ろしいほどの静寂に包まれたことを思い出す。
この場の空気は、それほどまでに張り詰めていた。殺気を向けられたザハドが、僅かに目を細める。
リーシェがこくりと息を呑んだ、その直後だった。
「――――怖がらせているのはお前だ、アルノルト!」
(!!)
明るい声音が響くことで、冷たさが一気に払拭される。
ザハドは悠然と笑みを浮かべ、酒の入った杯を傾けながら、平気な顔をしてこう告げた。
「そもそもお前が席を外した所為だぞ? 妃を放っておいた身で何を言う」
「…………」
アルノルトが眉根を寄せた顔を見て、ザハドはやたらと上機嫌だ。
「はは! 悪事の自覚はあるらしい」
「あ、アルノルト殿下はご多忙なのですから、どうかお気になさらず……!」
そもそもリーシェはアルノルトと一緒に、ザハドをもてなす立場である。本来ならアルノルトが気に掛けるべきは、リーシェのことではない。
それでもザハドは、アルノルトを挑発するかのように言った。
「このように稀有な宝石から、目を離すものではない。……危なっかしくて見ていられん」
(…………?)
冗談めかしたその口調に、リーシェは内心で困惑する。
どうしてアルノルトにそんな忠告を向けるのか、やはりザハドの意図が分からない。それでもザハドは、楽しむように投げかける。
「なあ? アルノルト」
「黙っていろ」
アルノルトは機嫌が悪そうに言葉を放つと、長椅子の傍らに立ったまま、リーシェの方へと手を伸ばした。
「……退屈したか?」
「い、いえ……!」
そのまま頬に指を添えられて、驚きながらも受け入れる。
リーシェの輪郭をくるむような触れ方は、とても優しい。ザハドに見せた鋭さなど、まるで最初から存在しなかったかのようだ。
「もう遅い。酒宴は終わりだ、部屋に戻るぞ」
「なんだ、つれないことを言う! 奥方が知りたいであろう昔話は、まだまだ山と積もっているんだが」
少し目を伏せたアルノルトが、当たり前のような顔で言った。
「――もうじき、俺たちの婚儀だからな」
「!」
事実でしかないはずの言葉に、どうしても心臓が跳ねてしまう。
「花嫁の方が、支度の負担は高くなる。……少しでも長く、寝かせてやりたい」
「……アルノルト殿下……」
リーシェがおざなりにしてしまうものを、アルノルトはいつも大切にしてくれる。
その気遣いが嬉しくて、左胸がきゅうっと苦しくなった。アルノルトはリーシェの手を取って、席を立つよう自然に促す。
それに応えるリーシェを見て、ザハドは長椅子の肘掛けに頬杖をつく。
「つくづくあのアルノルトが、これほどまでに細君を愛でる男だとは」
「繰り言はそれで最後か? お前のことは、後でオリヴァーが賓客室へ送り届ける」
「む。それは大人しく休まねばならんな」
ザハドは言い、杯を目線の高さに掲げた。
恐らくは窓向こうに浮かぶ細い月を、酒杯に重ねて眺めたのだ。
「良い時間だった。……今宵の俺は、この酒宴を夢に眠るだろう」
そうして太陽のような赤の瞳が、何処か悪戯っぽくリーシェを見遣る。
「貴女の夢も、素晴らしいものであらんことを」
「……ありがとうございます。おやすみなさいませ、ザハド陛下」
友人でないリーシェのことも、これほど気に掛けてくれるのだ。
それを嬉しく思うのと同じくらい、さびしくも感じる。リーシェは微笑みの後、再びアルノルトの手を取る。
「参りましょう。アルノルト殿下」
「……ああ」
そうしてザハドに一礼し、部屋を後にした。
***
「…………」
アルノルトとその婚約者を見送ったザハドは、ひとり残されたその部屋で、杯を眺めていた。
その中に映り込んだ細い月を肴に、瑞々しく甘い酒を呑む。荒々しくも力強い、それでいて芳醇なその酒は、ガルクハインの庶民に親しまれているものだそうだ。
ザハドにとって、とても好ましい味だった。
「……リーシェ殿、か」
アルノルトを見る彼女の瞳は、淡いエメラルドのようだった。
それと同時に、薬指に輝く指輪を思い出す。彼女は、アルノルトの瞳とまったく同じ宝石へ、大切そうに触れていた。
「――――……」
鮮烈なまでに美しい宝石が、ザハドの目の奥に焼き付いている。
***
(先ほどの、ザハドの問い掛け……)
アルノルトにエスコートをしてもらい、離宮の廊下を歩きながら、リーシェは思考を続けていた。
『――貴女は、幼いアルノルトが母君を殺した直後に、あの塔から連れ出した人物ではないのか』
(あの離宮から、殿下を連れ出した人。……そうした存在が、アルノルト殿下にとって重要な人物であることを、ザハドは知っている)
かつての出来事を想像して、その痛ましさに眉根を寄せる。
(アルノルト殿下の母君は、九歳だった殿下の首を何度も刺したあと、最後にご自身で命を絶とうとなさった)
それは、アルノルトがつい先日、初めて話してくれたことだ。
(苦しむ母君を目の前にした殿下は、ご自身も傷だらけの中で、もう助からない母君を楽にして差し上げるために……)
アルノルトと繋いだ指先に、思わず僅かな力が籠る。
そのことは当然気付かれてしまった。立ち止まったアルノルトがこちらを見たので、リーシェも同じく足を止める。
「リーシェ」
「?」
アルノルトはリーシェを見下ろして、当然のような顔で言った。
「――あの男を、二度とお前に近付けないようにも出来る」
「???」
思わぬ言葉に、瞬きをする。
「……ひょっとして、ザハド陛下のことを仰っていますか?」
「他にも、お前を翳らせた男がいるのか」
(私のすべての悩みごとは、アルノルト殿下に起因しているようなものなのですが……!!)
あらぬ方向から軌道修正を図るべく、リーシェは慌ててかぶりを振った。
「誤解をなさっているかもしれませんが、ザハド陛下は本当にとてもお優しかったです! アルノルト殿下がご退席中も、私にお酒を勧めてくださったり、場を和ませようとたくさん褒めてくださいましたし!」
「………………へえ」
「ハリル・ラシャにも招待したいと、勿体無いお言葉をいただきました。私も楽しかったので、なんら問題はなく……」
「……………………」
(ど、どうしてますます眉間に皺が!?)
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