283 砂漠の光景
(もしも私たちが、幼い頃に出会っていたとして)
思考を一度、その前提へと切り替えた。それでもやはり、分からない。
(私にはどうして、その記憶がないの……?)
薄衣を重ねたハリル・ラシャのドレスを、ぎゅっと小さく握り込む。
アルノルトが、静かな所作で杯を置いた。その理由は、部屋の外にひとりの気配が近付いてきたことにあるのだろう。
アルノルトが立ち上がるのと同時に、ノックの音が四度聞こえる。
「ご歓談中のところを失礼いたします。――我が君」
(オリヴァーさま)
新しい酒や、料理が運ばれてきたという訳ではなさそうだ。
アルノルトは、扉の方に向かう途中で、長椅子に座ったリーシェの方に手を伸ばす。
「続けていろ」
「!」
そう言って、ごく自然に頭を撫でられた。
心臓がどきりと跳ねてしまう。だって、リーシェがその位置に居たのなら、撫でるのは当然と言わんばかりの触れ方だ。
やさしく言い聞かせるように見下ろされ、お利口な子犬のように背筋を正す。
「……はい」
耳が火照ってしまったのを、いまさら酒精の所為に出来るだろうか。
アルノルトはふっと目を細め、それから扉を開けに行った。退室する訳ではなく、このままリーシェたちとは少し離れた部屋の入り口で、オリヴァーと何かを話し始める。
(お父君のことでは、ないかしら)
リーシェが会わせてもらった所為で、よくない動きがあるかもしれない。
そんな想像に心が沈むも、アルノルトがこちらに背を向けている以上、情報の収集は難しいだろう。
(限られた機会の使い道は、常に選ばなくてはいけないわ)
そう決めて、リーシェは目を閉じる。
(今のうちに、少しでもザハドとお話をしておくの。ザハドからしか得られない情報があるのに、今世ではまだ何の関係値も築けていない。だからこそ、まずは私という人間を信用してもらうため、に……)
「――――……」
ザハドから視線を注がれて、リーシェは顔を上げる。
そうしてひとつ、瞬きをした。
「ザハド陛下?」
「……うむ」
太陽を思わせる赤の瞳が、興味深いものを見る光を帯びて、リーシェを見据えていたからだ。
「奥方は、実に不思議な女性だな」
「!」
その形容は、信頼から遠い言葉と言えるだろう。
(……商人だった人生で、ザハドにそう言われたことはないわ)
内心に、僅かな緊張が走る。
(何か、失敗した……?)
ザハドは人心掌握に長け、民心に寄り添う気質の王だ。リーシェの僅かな感情の動きも、ザハドに見透かされている可能性は高い。
そのためか、ザハドはリーシェを安心させるかのように、猫のような美しい双眸を眇めて笑う。
「ああ、すまないな! 讃えたつもりであったのだが、些か不躾な言葉であったか」
「いいえ。滅相もないことです、ザハド陛下」
酒杯を干したザハドは、ゆっくりとテーブルにそれを置き、改めてリーシェと向き合った。
「改めて、今日の演練は驚いた。当然ながら、俺は勝つ気でいたのだが」
(……こんな発言を、確かな勝算と根拠の上で出来るのは、この世界でもザハドだけだわ)
軍国ガルクハイン、その皇太子が率いる近衛隊を相手にして、引けを取らない部隊は少ない。アルノルトもそう考えているからこそ、ザハドの隊との模擬戦に応じているのだろう。
ふたりの幼馴染は、幼少の砌からこうした研鑽を重ねている。
「貴女が俺の前に現れて、文字通りに息を呑んだ。貴女の鮮やかな剣術は、精霊の舞にも値する」
「ふふ。ハリル・ラシャの偉大なる王、ザハド陛下にそのようにお褒めいただくなど、この身に余る光栄です」
社交辞令に伴う言葉選びも、本当にザハドらしいと微笑んだ。煌びやかで華やかなものが好きな親友に、懐かしい気持ちで酒を注ぐ。
「あの時の所作も、実に見事だったな。ハリル・ラシャ式の礼の動きを完璧に取れる者は、国外にそう居ないはずだ」
「貴国の文化が素晴らしいからこそ、とても楽しく学べたのです。長く続く伝統に彩られた歴史は、知るほどに胸が躍りました」
「おお! そう言ってくださるか?」
ザハドは嬉しそうに笑い、まなじりを赤く彩った目を眇める。
「であればいずれ貴女のことを、ハリル・ラシャにご招待したいものだ。アルノルトは、興味が無いと切り捨てるだろうが」
「あのお方は、すべての国に対してそう仰るかもしれませんね。……ですが」
リーシェは少し振り返り、オリヴァーと話しているアルノルトの背中を見詰める。
「私もアルノルト殿下と一緒に、貴国へと訪れてみたいです」
「……ほう」
「書物の内容や、旅人のお話から想像したことしか、ありませんが……」
そんな嘘をひとつ前置いて、懐かしい景色を思い浮かべた。
「広大な砂漠。滑らかな砂が地平線の彼方まで広がって、黄金の波を描き出す光景や、澄み渡る空……過酷な試練を突き付けながらも、何もかもを受け入れてくれるような雄大さを持つ、そんな大地」
再び見据えたザハドの瞳に、かつて旅をしたあの場所を重ねる。
「そこで生きる人々の朗らかな眩さも、市場に溢れる活気も。灼熱の太陽や、冷たい夜の透き通った空気も……そうした全てを、アルノルト殿下にお見せしたいのです」
「…………」
アルノルトが海色の瞳で見るものを、戦火に照らされた世界ではなく、豊かな文化と景色に彩られたものにしたい。
(だからこそ、私は……)
心の中で誓いを新たにした、そのときだった。
「……アルノルトが好きか?」
「…………っ!?」
思わぬことを尋ねられ、再び頬が熱くなる。
「それ、は……!」
「ははっ!」
取り繕うことが出来ず、狼狽えてしまったリーシェの赤面を見て、ザハドはどうしてか微笑むのだ。
その上に、何処か真摯な低い声音で、リーシェを見据えて口にした。
「――――美しいな」
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