282 小さな殿下
リーシェが心から零した言葉に、アルノルトが呆れたような目をする。
「子供がその程度の背丈である事実に、特筆するべき感想などないだろう」
「何を仰るのです、アルノルト殿下……! 幼くてお小さい殿下なんて、可愛らしいに決まっています!」
譲れるはずもない主張を口にして、リーシェはくちびるを尖らせる。アルノルトは、空になったリーシェの杯に酒を注いでくれながらもこう言った。
「大体が、この男も同じように子供だったんだ。さほど身長が違った訳ではない中で、客観的な記憶が残っているとも思えない」
「何を言う、昨日のことのように覚えているさ。初めて俺に会ったときのお前は、今よりもっと退屈そうな目で俺を見ていた」
(…………)
幼かったアルノルトを、リーシェは心のうちに浮かべる。
(アンスヴァルト陛下の妃が住まう『塔』において、テオドール殿下がお生まれになるまでの約五年間、唯一生きることを許された小さな子)
ハリル・ラシャの伝統模様が刺繍されたドレスの裾を、きゅうっと小さく握り込んだ。
(きっとその頃のアルノルト殿下はすでに、赤子殺しへと連れられていた。女性たちや、お母さまからの憎悪を浴びながら……)
その日々を、正しく想像することなど出来はしない。
それでもリーシェは、幼かったアルノルトに思いを馳せるだけで、泣きたい気持ちになるのだった。
「お前の記憶にも残っているか? アルノルト」
笑って尋ねたザハドの言葉に、アルノルトはあっさりとこう答える。
「覚えていないな」
(…………)
母を殺したときのことも、アルノルトはそう言った。
「……私も」
手の中にあった盃をテーブルに置きながら、リーシェは思わずこう紡ぐ。
「小さな頃のアルノルト殿下に、お会いしてみたかったです」
「……リーシェ?」
「殿下と同じくらいの年齢で、一緒に遊べるお友達として。そうして……」
何度も人生を繰り返す中で、たくさんの憧れを叶えてきた。
けれどどれだけ望んでも、叶えられないこともあるのだ。それを今更知ったような気がして、リーシェはさびしさを微笑みに変える。
「幼いアルノルト殿下のことを、私が撫でて差し上げたかった」
「――――……」
皇帝アンスヴァルトの問い掛けのように、幼い頃に出会えていたのなら、そうすることが出来ていただろうか。
アルノルトは何かを言い掛けたあと、やがてリーシェを静かに見据え、言い聞かせる。
「――そのようなことは、起き得ない」
「…………っ」
穏やかで、とてもやさしい声音だった。
恐らくは、リーシェのことをあやすための言葉だ。けれどもそのやさしさが、殊更にリーシェの心を揺らす。
(当たり前だわ。……本来なら、過ぎ去った時間は繰り返せないもの)
その重さを、改めて自分に言い聞かせる。
行動することで変えられるのは未来のみだ。どれほどの繰り返しを経験しても、そのことだけは忘れてはいけない。
(私は決して、幼い殿下に触れることは出来ない。だからこそ……)
一度だけ俯いて瞑目し、リーシェは顔を上げた。その上で、にこっとアルノルトに微笑みを向ける。
「……それでは、未来で!」
「!」
そう告げると、アルノルトが僅かに目をみはった。
「これから先の人生で、たくさんアルノルト殿下を大切にいたします。幼いあなたに出来ない分を、いまのあなたに」
難しい顔をしたアルノルトに、なんだか可笑しくなってしまう。
「そうすることは、許して下さいますか?」
「…………」
「ふふ」
アルノルトはきっと、頷いてくれないと分かっている。
だからこそ敢えて尋ねたのだ。リーシェはザハドに両手で酒瓶を差し出し、杯に注ぎながらこう願った。
「ザハド陛下、もっともっとアルノルト殿下のことを教えてください! 小さな頃のお話は、すぐに『覚えていない』などと仰るのです」
「……ああ、もちろんだ!」
ザハドは快諾の笑みを浮かべ、盃を少し上に掲げた。
「それにしても、素晴らしい妃を見付けたものだな。奥方は確か、エルミティ国の王太子の婚約者であらせられたのを、アルノルトが見初めて奪ったのだったか?」
(そう。……今の所、そういうとんでもない話になってるのよね……)
リーシェが噂で聞いたところによれば、現在は『リーシェがディートリヒに婚約破棄された』という事実より、アルノルトたちが流した嘘の方が信じられている。
「これまで妻を迎える気がなかった男が、随分と強引な嫁選びをしたものだ。もしもエルミティ国が抗ったときは、一体どうするつもりだった?」
(!?)
思わぬ矛先を向けられて、リーシェの背筋に緊張が走る。
(どうしてそんなことを聞くのザハド……!! いいえ、確かに知りたい気持ちはあるけれど、それでも!!)
とはいえアルノルトはいつもの通り、質問に答えることはないだろう。
(きっと、教えて下さらないわ)
リーシェへの求婚にまつわる問い掛けで、真実を答えてもらったことはない。
そう考えていたリーシェの隣で、アルノルトがぽつりと言葉を落とす。
「――――そうだな」
「……殿下……?」
アルノルトが杯を傾けるさまは、それだけで絵になるほど美しい。
くちびるをつける仕草も、尖った喉仏が動く様子も、一連の所作が芸術のようだ。
アルノルトは僅かに目を伏せ、青色の瞳に睫毛の影を落として、こう紡いだ。
「あの国を焼き払ってでも、手に入れた」
「…………!」
これが戯曲の言葉であれば、情熱的な愛としても描かれただろうか。
けれどもリーシェの心臓は、恋ではなく不穏に早鐘を打つ。アルノルトが平然と言い放った事実に、どうしても混乱してしまうのだ。
(どうして?)
口に出せない問い掛けが、思考の濁流となって渦を巻く。
(それほど私を欲する理由なんて、少なくともあのときの殿下には存在しない。……するはずがない、それなのに)
『ご令嬢は、どの国から嫁いで来るのだったか』
アンスヴァルトに投げられた問い掛けが、再び耳の奥で反響した。
『幼き折、一度でもアルノルトに会ったことがあるか?』
(…………)
先ほどアルノルトはリーシェに告げた。
幼いリーシェがアルノルトに出会い、互いの年齢が近かったとしても、リーシェがアルノルトを撫でることは『起こり得ない』と。
(私たちが出会うことが、起こらないのではなくて。……実際は、小さな頃に一度出会っていても、私が殿下に手を伸ばすようなことが起こらないと仰っていた……?)
そんなことは、こじつけでしかない想像だ。
自分に言い聞かせようとして、リーシェは口を閉ざす。
いつも応援ありがとうございます!
今年も『このラノ』こと、このライトノベルがすごいの投票期間が始まりました!
雨川作品はこちらの2作品が対象です!
-------------------------------
◆ループ7回目の悪役令嬢は、元敵国で自由気ままな花嫁生活を満喫する
レーベル:オーバーラップノベルスf
著者名:雨川 透子
◆悪党一家の愛娘、転生先も乙女ゲームの極道令嬢でした
レーベル:TOブックス
著者名:雨川 透子
-------------------------------
▼ご投票はこちら▼
https://konorano2026.oriminart.com/
何卒応援のほど、よろしくお願いします……!!




