279 立ち上がり、前へ!
そしてリーシェは、隣の婚約者を見上げると、ほんの少しだけさびしい気持ちで微笑んだ。
「アルノルト殿下のお陰です。……いつも、私の願いを聞いてくださる」
「…………」
もしもリーシェが、アルノルトの目的を阻止するために動いているのだと知ったとき。
アルノルトからは、どんなまなざしを向けられるのだろうか。
そのことを恐ろしく思っても、恐怖を糧にしてでも進むのだと、もう決めている。
「リーシェ」
「!」
アルノルトの手が、リーシェの背へと添えられた。
夜会において、いつもエスコートをしてくれるときのように。それでも促されたのは、共に前へと歩み出ることではない。
「お前は先に、離宮へ戻っていろ」
「アルノルト殿下……?」
リーシェが尋ねようとする前に、アンスヴァルトが小さく喉を鳴らす。
「すまないが私と息子には、ふたりだけで『話し合う』べきことがある」
「…………」
アルノルトとは決して似ていない、しかし同じくらいに整ったアンスヴァルトの涼しい目元に、皇帝としての威厳を感じさせる皺が僅かに寄った。
「なかなかに楽しかったよ。――お嬢さん」
「……光栄ですわ。お義父さま」
リーシェは真っ向から微笑みを返す。
ドレスの裾を柔らかく摘んで、腰を少し落とす挨拶をした。
(もしも)
そうして姿勢を正し、アルノルトを見上げる。
(私がしたことで、殿下が叱られてしまうのだとしたら……)
心配な気持ちを顔に出したつもりはなかったのに、アルノルトはリーシェの瞳を見下ろして、そのまなざしを和らげた。
「婚儀の支度の、続きを頼めるか?」
「……もちろんです。殿下」
笑みを作り、アルノルトの願いに頷く。
「お待ちしておりますね」
「ああ」
リーシェはもう一度、アンスヴァルトに深く礼をする形を取ったあとで、ゆっくりと振り返った。
先程はアルノルトと歩いた絨毯の上を、ひとりで歩む。背筋を正し、足音を立てず、あくまで優美に。
背中の向こうに、冷たくて暗い空間が広がっていることを、嫌というほどに感じながら。
***
「さて。……アルノルトよ」
花嫁が退室した謁見の間で、皇帝アンスヴァルトの声音が重く響いた。
その顔に、先ほど浮かべていたような笑みは存在しない。不機嫌そうに頬杖をついたまま、冷たい双眸で後継者を見下ろしている。
皇太子アルノルトが幼い頃から、何度も繰り返してきたのと同じように、静かな命令を放つのだ。
「お前が成すべきことは、理解しているな」
凍り付くような重圧感の中で、アルノルトは表情のひとつも変えることはない。
そうして父に向け、口を開くのだ。
「――――陛下」
***
「……っ、は……」
謁見の間を出た扉の前で、リーシェはずるずるとしゃがみ込んだ。
見張りの騎士さえ払われた廊下に、浅い呼吸音が漏れてしまう。
床に膝を突くことは堪えるも、胸の前でぎゅっと握り締めた手が、小さく震えているのが自覚できた。
(――本当に、凄まじい重圧)
自身の身体が示す反応を、いっそ冷静な気持ちで観察する。
(頭では『まだ安全』だと分かっていても、反射的に死を覚悟してしまうわ。アンスヴァルト陛下が、こちらに視線を向けるだけで……)
リーシェは緩やかに目を眇め、どうにか開いた手のひらを見下ろした。
(私の知っているアルノルト殿下は、決してお父君と同じではない。……けれど、戦場で見た未来の『皇帝』アルノルト・ハインは、あのお方と同等の気を纏っていた)
俯いて、小さな声で彼を呼ぶ。
「……だんなさま」
リーシェの願いを叶えるにあたり、どれほどの負担を掛けたのだろうか。
アルノルトの戦争を止めるため、彼に幸せな未来を迎えてほしいからと願っても、それが免罪符になることは絶対に無いのだ。
(ごめんなさい)
いますぐ扉をもう一度開き、アルノルトの手を引きたい衝動を押し殺す。
左手の指輪に右手を重ね、祈るように握ったそのときだった。
「――扉越しでも、とんでもない殺気だったよなあ」
「!」
場違いなほどに飄々とした声が、上から聞こえる。
リーシェが顔を上げた先には、アルノルトの近衛騎士の軍服に身を包んだ、かつての人生における頭首が居る。
「あの中で、父子の殺し合いでもしてんの?」
「……ラウル」
「なーんて」
完璧に気配が消されていて、気が付かなかった。へらっと笑った狩人は、悪戯っぽく目を眇める。
「あんたの愛しい旦那さまが。謁見のあと、奥方を部屋まで護衛しろってさ」
「アルノルト殿下が……?」
恐らくは、あらかじめラウルに告げていたのだろう。
アルノルトはやはり、常にリーシェの行動や心情を見通した上で、あらゆる配慮を注いでくれている。だから本物の近衛騎士ではなく、皇帝に気圧されないラウルを、この役割に選んだのだ。
「とはいえ、どうやらお加減が優れないようで。おいたわしい、これは一大事だ!」
「……ふふ」
冗談めかした言い方も、ラウルなりの気遣いである。
(私がラウルの配下だったときと、変わらない)
過去の人生で見ていた身として、これが遠回しの配慮であることを知っていた。
「椅子でも持ってきてやろうか、奥方さま。――俺があんたの手を取ったら、殿下のお怒りを受けそうだし?」
「アルノルト殿下は、そんなことで怒ったりしないと思うけれど……」
リーシェは首を傾げたあとに、一度ゆっくりと目を伏せる。
(そうね。……こんな所で、立ち止まっている暇はないわ)
意識して深く呼吸をし、分かりきっていることを胸中で唱えた。
(だってもうすぐ、私たちの結婚式なのだもの!)
「――お」
ぱっと優雅に立ち上がり、漆黒のドレスの裾を摘む。漆黒の花びらのようなドレープラインを整えると、リーシェはラウルに向けて笑った。
「ありがとう、もう平気! 離宮に戻ったら婚儀の最終確認と、夜に行なうザハド陛下の歓待の酒宴を準備しなくちゃ!」
「あーあれ。アルノルト殿下と奥方さま、ハリル・ラシャの国王の三人だけっていう会なんだろ? ……奥方を挟んで幼馴染ふたりか、どうなることやらだな」
「? 小さな男の子の頃のお話がたくさん聞けそうで、楽しみだわ」
ラウルの懸念を不思議に思いつつ、次の行動を見据える。
(フロレンツィア妃殿下)
そして、アンスヴァルトが先ほど口にした言葉を思い出すのだ。
『あれも、くだんの店で宝石を買う方法を、さぞかし知りたがっていることだろう』
(……宝石……)
左手の薬指を見下ろし、世界で一番美しい青色に目を眇めた。
リーシェは思考を巡らせながらも、ラウルと共に離宮へ向かうのである。
***
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