278 秘密を知る人
リーシェが不穏当な『試み』をしていると、アルノルトは分かっていたはずだ。
それでもリーシェを止めるのではなく、願いを叶えると誓ってくれた約束のままに、すべてを許してくれている。
(アルノルト殿下の、仰る通り)
袖口を握り込んでいた指を、意識してほどく。
(私はこのお方の妻になる。……それは、今世における大きな武器のひとつだわ)
求婚を受けたあの夜、妃としてアルノルトの傍にいれば、戦争の理由が分かるかもしれないと考えた。
けれど、あのときの思考は間違いだ。
ただ傍に居るだけでなく、ここで得られるすべてを利用しなければ、アルノルトを知ることなど出来ない。
(……揺らいだときこそ、深く息を継ぐ)
目を閉じて、かつての人生の戦いで学んだことを思い浮かべた。
(胸を張り、堂々と、誇りを持って姿勢を正す。敵を真正面から見据えて、そして)
深呼吸のあと、リーシェは改めて顔を上げる。
(――自分自身を欺くほどに、完璧な笑みを!)
「…………」
リーシェが挑むように笑ったその瞬間、アンスヴァルトの双眸が、ほんの僅かに眇められた。
(私が知る限り、アルノルト殿下が最も強い感情をお見せになるのは、お父君に関することだわ)
アルノルトは過去の人生で、父を殺して皇帝になる。
その父殺しそのものは、恐らくアルノルトの最終目的ではないだろう。それでも大きな転機であり、戦争の未来と結び付いたものであるはずだ。
(全部を思考の材料にするの。アンスヴァルト陛下のもたらす全ては、この人生でなければ得られない情報)
そしてリーシェの挑発は、間違いなく皇帝の感情を揺らしたのだ。
(余裕のある振る舞いを保ってはいらしても、はっきりと私を牽制なさったわ。やはりこのお方は、アルノルト殿下が自分の血を強く引いている存在と見ることに、固執していらっしゃる)
リーシェはアルノルトのことを見上げ、最初に、心からの気持ちを告げた。
「嬉しいです。アルノルト殿下」
「…………」
その上で、改めて強く願うのだ。
(私はどうしても、あなたの未来を美しく、幸福に満ち溢れたものにしたい)
彼の戦争を止めるためには、過去の人生すべてだけではなく、今世で得たものも武器にしてゆく必要がある。
「……とはいえ。私が、この偉大なるガルクハインの妃として、いまだ至らぬ身であることは間違いございません」
胸元にそっと右手を当てて、表面だけはしとやかに微笑む。
(先ほどの『揺さぶり』が、アンスヴァルト陛下の本心かは分からないわ。私へのお仕置きに、駆け引きを仕掛けられた可能性だってある)
この皇帝が、真実だけを口にするとは限らないのだ。
(いま考慮するべき最大は、先ほどの言葉を、アルノルト殿下にお伝えになった意図)
リーシェは再び、アンスヴァルトを見上げた。
(『アルノルト殿下が幼い頃に出会った誰か』が、この父子にとって何らかの意味を持つんだわ。私と――誰よりも、アルノルト殿下に釘を刺すため)
だからこそ、さらに一歩玉座へと進み出る。恐れを知らない、無邪気な令嬢の顔をしたままで。
「ですから、お願いしたいことがございます。お義父さま」
肘掛けに頬杖をついたアンスヴァルトが、何も言葉を発さないまま、面白がるように口の端を上げた。
(私がアンスヴァルト陛下に接触できる機会は、それほど多くない。この謁見で得るべきは、それを増やす足掛かりとしての、このお願いだと思っていたけれど……得られるものは、それだけではなさそうだわ)
これは、リーシェにとっての好機だ。
(アンスヴァルト陛下にとても近しく、アルノルト殿下の『幼い頃』を知る可能性もあるお方が、この皇城にはいらっしゃる)
リーシェは微笑みをまた深め、進言した。
「この国の妃としての、薫陶を賜りたく。そうして一日でも早く、皇室の皆さまのお役に立てるよう……是非とも、ご指導いただきたいのです」
わずかに首を傾げると、珊瑚色の髪がふわりと揺れる。
そして、自身をまだ皇太子妃として認めていないであろう皇帝に向けて、はっきりと願った。
「――お義父さまの正妃であらせられる、フロレンツィア妃殿下に」
「………………」
アンスヴァルトが、僅かに皺の刻まれたその目を、ゆっくりと細める。
ガルクハイン皇妃フロレンツィアは、皇帝アンスヴァルトの、今となってはたったひとりの妃だ。
ガルクハインでは皇帝のみが、複数の妻を取ることを認められている。かつてのアンスヴァルトは、敗戦国から人質としての花嫁を多く娶り、主城からのみ辿り着ける塔へと閉じ込めた。
その中でも、正妃であるフロレンツィアだけが、いまも存命であるただひとりの人物なのだ。
(ガルクハインに戦争で渡り合える強国は、世界で三ヶ国。そのうちの一ヶ国の、王女だったお方)
人生を幾度も繰り返し、未来を知っているリーシェですら、フロレンツィアの情報は数少ない。
(表舞台に出ないよう、息を潜めていらしたはずのテオドール殿下とは違うわ。……クーデターによって殺された皇帝の妃であり、大国の王族の血を引くはずの人物の処遇が、その後の噂にすら聞こえてこなかった)
この国に来てから知った仔細を、心の中で思い浮かべる。
(アルノルト殿下のご弟妹は、みんなお母さまの違う異母兄弟。フロレンツィア妃殿下は、どなたの母君でもないけれど……いまから十五年ほど前に嫁いでいらして、ご存知のはず)
リーシェは振り返り、もう一度、自身の夫となる男に微笑む。
(四歳の頃の、『幼い』アルノルト殿下を)
そうしてそこに、大きな秘密が隠れているかもしれないのだ。
(少なくともアンスヴァルト陛下の視点から見て、アルノルト殿下への警告になり得る事柄。それを知る糸口になるお方と、約束を取り付けられるのであれば……)
リーシェは、静かにこちらを見据えるアルノルトに向けて、明るくねだった。
「賛成して下さいますか? アルノルト殿下」
「――――……」
海の色をした瞳が、リーシェのことを確かめる。
すべてを見透かすようなまなざしは、やがてリーシェの双眸から外れ、玉座の方へと向けられた。そして、赤の他人と変わらない呼称で、実の父を呼ぶ。
「陛下」
「…………ははっ!」
昏く笑ったアンスヴァルトは、まるでリーシェを試すかのようにこう言った。
「そうだな。あれも、くだんの店で宝石を買う方法を、さぞかし知りたがっていることだろう」
(宝石……ひょっとして)
その上で、許しを下すのだ。
「フロレンツィアに、良くしてやれと伝えておこう」
「……ありがとうございます、お義父さま!」
まずは、ひとつめの仕掛けの成立だ。
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