276 さあ、ご挨拶を
瞑目したアルノルトが息を吐き、僅かに軸足を引こうとする。そうした理由をすぐに察して、リーシェは告げた。
「殿下はどうか、いつもの通りにお過ごしを」
青のまなざしが注がれる。
恐らくは、リーシェひとりに膝をつかせまいとする配慮だろう。けれどリーシェはアルノルトを見上げたまま、ほんの少しの冗談を混ぜて、いつか告げられた言葉を返した。
「あなたが跪いて下さる相手は、世界でただひとりだけなのでしょう?」
「…………は」
アルノルトは、目を眇めるようにして小さく笑う。
「そうだな」
「…………っ」
リーシェは両の指を組んだまま、その手をきゅうっと握り込む。
(……どうして)
アルノルトの双眸がリーシェを外れ、数段上の玉座に向けられた。
(このお方は、二年後にお父君を殺そうとなさっているのではないの?)
それこそが、『皇帝アルノルト・ハイン』による、世界戦争の始まりだ。
(そんな計画は、もちろん秘密裏に進めたいはず。それなのに、アルノルト殿下は隠していらっしゃらない)
冬の海を思わせるアルノルトの瞳に、燭台の火が映り込んで揺れる。
(お父君への敵意も……)
その青色を見上げるだけのリーシェにすら、痛いほどにはっきりと感じ取れる。
(――そして、その強い殺気すらも)
視線に宿る鋭さは、研ぎ澄まされた刃のようだ。
「来るぞ」
アルノルトが短く告げると共に、リーシェは小さく頷いた。
そうして緩やかに瞑目し、改めて深く頭を下げる。謁見の間に響き渡ったのは、扉越しに聞こえる騎士の声だ。
「皇帝陛下の、ご臨席です!」
玉座に近しい場所の扉が、重く開け放たれる音がした。
(…………!!)
その瞬間、空気が瞬時に張り詰める。
大理石の床を衝く軍靴の音が、こつりと一歩刻まれた。ひとつずつ、硬くて重いその足音が、ゆっくりと壇上に向かっている。
(……この、重苦しさ……)
リーシェはその場に跪いたまま、ほとんど無意識に息を殺した。
研ぎ澄まされた感覚を、嫌でもその人物に集中させてしまう。恐怖心にも焦りにも似た感情が、心臓をどくどくと波立たせた。
(かつての戦場で、『皇帝アルノルト・ハイン』に感じたのと同じ。……ただ、この場に居るだけなのに)
体の奥底から、男への『警告』が湧き上がってくる。
(本当は、お会い出来ないかもしれないと覚悟していたわ。いざ謁見の時になって、謁見を覆されても仕方がないと……)
だが、嫌でも思い知らされた。
その男は、顔を上げることすら出来ない緊迫の中にあって、圧倒的な存在感を放っているのだ。
(確かにここに、いらっしゃる)
男が、玉座に腰を下ろす気配がした。
どさりと投げ出すかのような、気怠げな振る舞いだ。どうやら肘掛けに頬杖をついたらしく、脚を組むような衣擦れも聞こえる。
そして男は、後継者の名前を口にするのだ。
「――――アルノルト」
低く、地を這うような響きの声音だった。
静かなのに他者を圧倒する。それは恐らく、すべて男の意図した通りなのだろう。
「お前は一体、どういうつもりだ」
(……これが、現皇帝陛下のお声……!)
呼吸も苦しいほどの重圧感に、リーシェは両指を握り込む。
「たかだか、妃ごときのために謁見など」
目を開けることも、顔を上げることも許されていない。男は恐らくアルノルトだけを見下ろして、こう告げた。
「取るに足らない事柄に、私の時間を消費させるな」
「…………」
押し潰されそうな緊迫感に、リーシェはきつく目を閉じた。
しかしアルノルトは、涼しい声音でこう返す。
「――お言葉を返すようですが」
けれども決して、いつも通りなどではなかった。
それはもちろん、アルノルトの言葉の選び方が、平素よりも恭しいものであるという事実だけではない。
(いつでも、私を守れるように)
アルノルトが警戒を見せているという事実が、なおさらこの空間を締め付ける。
「ハリル・ラシャとの会談こそ、陛下にとって瑣末なものでしょう。先ほどの演練により、かの国の実情については把握しております」
アルノルトの淡々とした言葉に対し、低い声が命じる。
「述べろ」
「兵たちの練度の向上は言うまでもなく。急所を狙う動きに、迷いはありませんでした」
「…………」
皇帝は恐らく、見定めていた。
ハリル・ラシャの状況などではなく、子息の言葉や分析こそをだ。それを理解しているはずのアルノルトの声音は、恐ろしいほどに落ち着いている。
「外交官の口にする表向きの情勢とは異なり、依然として強い緊張状態にある模様。『国境地帯での小規模な紛争が多発している』という推測を裏付けるものと見て、間違いは無いかと」
「……ならば」
男はいっそうつまらなさそうに、冷酷な音で言い放つ。
「なぜ先ほど、ザハドを殺しておかなかった」
(…………!?)
この男は、何を口にしているのだろうか。
現状では友好国である国の王に対し、容易くそんなことを吐き捨てる。それはとても、真っ当な考えだとは思えない。
「あの若造を排除すれば、かの地域はすぐにでも我が国の中へ落ちる。無論、周辺諸国の全てがだ」
(……いいえ。これは)
「そんなことも分からぬ『子供』ではないだろう。……終戦から二年、些か思考が甘くなったか」
(本心で命じていらっしゃるのではない。きっと、何もかもアルノルト殿下への……!)
父親のものというには冷酷な声音が、はっきりと告げた。
「――なあ? アルノルトよ」
「…………」
この男は、試しているのだ。
自分の後継者であるアルノルトが、ここでどのような判断をするのか。
従うのか、逆らうのか、あるいはそのまま刃を向けるか。その返答次第ではどんな判断も下すであろうことは、想像に難くない。
(アルノルト殿下を、お守りしないと……)
目を閉じたままのリーシェがそう覚悟した、直後だった。
「――単純なことです」
(!)
アルノルトが、冷静な声音でこう告げる。
「この皇城をザハドの血で穢せば、儀式に支障をきたすことは明白。それは我が本意ではございません」
「……儀式、だと」
「無論」
そうして憎んでいるはずの父に向け、言葉を向けた。
「妃のための、婚姻の儀です」
「…………」
これまで父親を見据えていたであろうアルノルトが、こちらを見下ろした気配がする。
「リーシェ」
(……アルノルト殿下……)
アルノルトが名前を呼んでくれる。
それだけで、リーシェには
「顔を上げていい。……お前の、思う通りにやれ」
「…………」
リーシェはひとつ、呼吸をする。
(ここにあるのは、確かに戦場に匹敵する重圧。けれど)
それならば、すべて覚えのあるものだ。
(戦場での戦い方なら、知っているわ)
リーシェはくちびるにひとつ、笑みを浮かべる。
「……恐れ多くも、ご威光輝く陛下の御前に姿を現しますご無礼を、お許し下さい」
両手を祈りの形に結んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
「この度、分不相応の身でありながらも、皇室の末席に加えていただく栄に浴することとなりました。わたくしは、リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー……」
閉じていた目をそうっと開き、真っ直ぐにその男を見据える。
「数日後の婚儀をもって、『リーシェ・イルムガルド・ハイン』と名を改める者です」
「――――……」
玉座からこちらを見下ろすのは、黒髪に青い瞳を持つ、美しい壮年の男だった。
四十一歳という年齢よりも年若く見える男は、それでいて全身に威厳を纏っており、見る者を威圧するような風格がある。
黒を基調とした軍服に磨き上げられた靴、それらのすべてが彼の放つ重圧を強調し、恐ろしさの象徴にすらなっていた。退屈そうに頬杖を突いていても隙を感じられないその様子は、アルノルトと同じだ。
アルノルトが何処か女性的な美しさもある造りであるのに対し、その人物は無骨な精悍さがあった。
それでも、芸術品の彫刻のように整った容貌であることは、疑いようもないだろう。その人物に、リーシェはこう続けた。
「至らぬ身ではございますが、どうかお慈しみを賜りますよう」
漆黒の睫毛は長く、目元に影を落としている。
アルノルトとまったく同じ色をした青の瞳は、何処か澱んで暗く見えるのだった。
「何卒御心にお留め置きを、皇帝陛下。……いいえ」
酷薄なまなざしが、リーシェを見据えている。
その男に対し、リーシェは挑むように笑って告げた。
「――――『お義父さま』」
「…………」