表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/317

31 私が知らなかったこと

 リーシェの告げた言葉に、アルノルトは顔を歪めた。


 ひどく忌々しそうなまなざしだ。このまま拒絶され、突き放されるかもしれない。だが、リーシェはその青い瞳から目をそらさなかった。


 どのくらい、互いの視線が拮抗していただろうか。

 彼が次に紡いだのは、こんな言葉だ。


「……お前の中にある、その覚悟の根幹は、一体なんなんだ」


 リーシェには、問い掛けの真意が分からなかった。


「覚悟、ですか?」

「お前は時折、そんな目をする。――たとえるならば、戦場に立つ者の目だ」


 まるで、過去を見透かされたかのようである。

 すぐに返事が出来なくて、リーシェは口を閉ざした。アルノルトの手が、リーシェの首からするりと離れる。


 その代わりに、今度は頬へと触れられた。

 アルノルトは、親指をリーシェのまなじりに添えると、まっすぐに瞳を見つめてくる。


「この信念を貫き通せるなら、ここで死んでも構わないという覚悟を決めた者の目をしている。だが、それでいて生を諦めておらず、最期の瞬間まで己の命運に抗おうとする。そんな人間の顔付きだ」


 リーシェは何故か動けず、ただずっとアルノルトを見上げていた。ステンドグラスから透けた月の光が、彼の頬に睫毛の影を落としている。


 アルノルトはリーシェの瞳を通し、ここではない遠くの戦争を見ているかのようだ。あるいは、かつて自身が剣を振るった人々のことを。


「俺は、そういう者を殺さなければならない瞬間が、戦場で最も恐ろしい」

「……」


 彼にも、怖いと感じるものがあるのだ。


 しかし考えてみれば、それは当たり前のことだった。目の前にいる男が、無慈悲で冷徹な殺戮者ではないことを、リーシェはもう知っている。


 たとえ、未来や過去がどうであれ。


「……私は」


 リーシェは静かに口を開いた。


「私は、時折考えることがあります。自分がもう、この世の人間ではないかもしれないと」


 我ながら、脈絡のない告白だ。


 彼に問われたことの返事にはならないと、分かっていても口にしてしまった。にもかかわらずアルノルトは、続きを待つように沈黙する。


 促されていることを感じながら、リーシェは少しずつ紡ぐ。本当のことを打ち明けるわけにはいかないから、そこにいくつかの嘘を混ぜて。


「私は過去に六度、自分が殺されてしまう夢を見たことがあります。いまはその夢から覚めて、ここに生きている。……そのはずなのに、時々とても怖くなるのです」

「怖いとは、何がだ」

「本当は、自分がもう死んでしまっているのではないか、と。私の命はあの瞬間に終わっていて、いまこうして生きている世界こそが、死後に見ている長い夢なのではないかと」


 そう話しながら、リーシェは内心で心底戸惑っていた。


(……何かしら、これは)


 自分の中に、こんな感情があったことなど知らなかった。

 けれど考えてみれば、リーシェはずっとどこかで怯えていたのだ。


 今度の人生こそ死にたくない。頑張って生き延びたい。それはリーシェが七度目の人生において掲げている、大きな目標だ。


 けれど、過去だってそうだった。


 二度目も三度目も、死にたくなくて努力した。五度目や六度目に至っても、それらは達成されずに散っていった。


 その事実がいつも、心の奥底に眠っている。


 ここでどんな努力をしたって、五年後にはまた殺されるかもしれない。


 そもそもリーシェが生きているこの世界が、やはり現実でないのかもしれない。そんなことを考え始めたら、不覚にも立ち止まってしまいそうだ。


(……駄目)


 リーシェは俯くと、静かに目を瞑った。

 そして自分に言い聞かせる。


(怖いから、なんだというの。――恐怖心が私の中にあるのなら、それを逆手に取ってでも、前に進む)


 立ち止まっていればいるほど、恐ろしいものは背後から忍び寄ってくるのだ。

 リーシェは再び顔を上げ、アルノルトを見上げた。


「それでも、私は決めています。たとえこの人生が夢であろうと、どんな結末を迎えるのであろうと、逃げたくないと」

「……リーシェ」

「いまの私の中にあるのは、殿下の仰るような大それたものではありません。ただ、あなたの妻としてこの人生を生きる覚悟があるのみです」


 きっと、たとえ次に生まれ変わるとしても、こんな運命にはもう二度と辿り着かないだろう。


 人生の繰り返しにおいて、他の人生と完璧に同じ流れを再現するのは困難なことだ。そのことをリーシェは知っている。


 分かっているからこそ、全力で向き合わなければならない。


 戦争を止めるため。生き延びるため。


 それから。

 もしかしたら、あの未来を望んでいなかったかもしれないアルノルトのために、出来ることがあるのなら。


「だから私は、あなたのことを知りたいのです」

「……はっ」


 言い切ると、小さな嘲笑を漏らされる。頬に添えられていたアルノルトの手が、今度はリーシェのおとがいを支えた。


 そして、次の瞬間。


「――……」


 くちびるに、柔らかいものが触れる。


 何が起きたのか分からずに、リーシェは息を呑んだ。

 永遠とも思われる数秒ののち、重ねられていたアルノルトのくちびるが離れた。次いで落とされたのは、囁くような声だ。


「馬鹿だな、お前は」


 彼は、仕方のない者を見るまなざしをしていた。


 その声は、幼子に言い聞かせるように穏やかだった。ただし、どこか寂しさにも似たものを滲ませながら。


「……俺の妻になる覚悟など、しなくていい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] この話の主人公、人間味あっていいな
[良い点] ただただかっこいい…。 リーシャも、アルノルトも。
[一言] この作品の、文章、テンポ、世界観が好きで一気に浸かりたくて200話超えるまでワザと読みませんでした。 1話ごと一週間待つのは気分が途切れて嫌なのです。 出来れば1000話超える大作にして下…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ