31 私が知らなかったこと
リーシェの告げた言葉に、アルノルトは顔を歪めた。
ひどく忌々しそうなまなざしだ。このまま拒絶され、突き放されるかもしれない。だが、リーシェはその青い瞳から目をそらさなかった。
どのくらい、互いの視線が拮抗していただろうか。
彼が次に紡いだのは、こんな言葉だ。
「……お前の中にある、その覚悟の根幹は、一体なんなんだ」
リーシェには、問い掛けの真意が分からなかった。
「覚悟、ですか?」
「お前は時折、そんな目をする。――たとえるならば、戦場に立つ者の目だ」
まるで、過去を見透かされたかのようである。
すぐに返事が出来なくて、リーシェは口を閉ざした。アルノルトの手が、リーシェの首からするりと離れる。
その代わりに、今度は頬へと触れられた。
アルノルトは、親指をリーシェのまなじりに添えると、まっすぐに瞳を見つめてくる。
「この信念を貫き通せるなら、ここで死んでも構わないという覚悟を決めた者の目をしている。だが、それでいて生を諦めておらず、最期の瞬間まで己の命運に抗おうとする。そんな人間の顔付きだ」
リーシェは何故か動けず、ただずっとアルノルトを見上げていた。ステンドグラスから透けた月の光が、彼の頬に睫毛の影を落としている。
アルノルトはリーシェの瞳を通し、ここではない遠くの戦争を見ているかのようだ。あるいは、かつて自身が剣を振るった人々のことを。
「俺は、そういう者を殺さなければならない瞬間が、戦場で最も恐ろしい」
「……」
彼にも、怖いと感じるものがあるのだ。
しかし考えてみれば、それは当たり前のことだった。目の前にいる男が、無慈悲で冷徹な殺戮者ではないことを、リーシェはもう知っている。
たとえ、未来や過去がどうであれ。
「……私は」
リーシェは静かに口を開いた。
「私は、時折考えることがあります。自分がもう、この世の人間ではないかもしれないと」
我ながら、脈絡のない告白だ。
彼に問われたことの返事にはならないと、分かっていても口にしてしまった。にもかかわらずアルノルトは、続きを待つように沈黙する。
促されていることを感じながら、リーシェは少しずつ紡ぐ。本当のことを打ち明けるわけにはいかないから、そこにいくつかの嘘を混ぜて。
「私は過去に六度、自分が殺されてしまう夢を見たことがあります。いまはその夢から覚めて、ここに生きている。……そのはずなのに、時々とても怖くなるのです」
「怖いとは、何がだ」
「本当は、自分がもう死んでしまっているのではないか、と。私の命はあの瞬間に終わっていて、いまこうして生きている世界こそが、死後に見ている長い夢なのではないかと」
そう話しながら、リーシェは内心で心底戸惑っていた。
(……何かしら、これは)
自分の中に、こんな感情があったことなど知らなかった。
けれど考えてみれば、リーシェはずっとどこかで怯えていたのだ。
今度の人生こそ死にたくない。頑張って生き延びたい。それはリーシェが七度目の人生において掲げている、大きな目標だ。
けれど、過去だってそうだった。
二度目も三度目も、死にたくなくて努力した。五度目や六度目に至っても、それらは達成されずに散っていった。
その事実がいつも、心の奥底に眠っている。
ここでどんな努力をしたって、五年後にはまた殺されるかもしれない。
そもそもリーシェが生きているこの世界が、やはり現実でないのかもしれない。そんなことを考え始めたら、不覚にも立ち止まってしまいそうだ。
(……駄目)
リーシェは俯くと、静かに目を瞑った。
そして自分に言い聞かせる。
(怖いから、なんだというの。――恐怖心が私の中にあるのなら、それを逆手に取ってでも、前に進む)
立ち止まっていればいるほど、恐ろしいものは背後から忍び寄ってくるのだ。
リーシェは再び顔を上げ、アルノルトを見上げた。
「それでも、私は決めています。たとえこの人生が夢であろうと、どんな結末を迎えるのであろうと、逃げたくないと」
「……リーシェ」
「いまの私の中にあるのは、殿下の仰るような大それたものではありません。ただ、あなたの妻としてこの人生を生きる覚悟があるのみです」
きっと、たとえ次に生まれ変わるとしても、こんな運命にはもう二度と辿り着かないだろう。
人生の繰り返しにおいて、他の人生と完璧に同じ流れを再現するのは困難なことだ。そのことをリーシェは知っている。
分かっているからこそ、全力で向き合わなければならない。
戦争を止めるため。生き延びるため。
それから。
もしかしたら、あの未来を望んでいなかったかもしれないアルノルトのために、出来ることがあるのなら。
「だから私は、あなたのことを知りたいのです」
「……はっ」
言い切ると、小さな嘲笑を漏らされる。頬に添えられていたアルノルトの手が、今度はリーシェのおとがいを支えた。
そして、次の瞬間。
「――……」
くちびるに、柔らかいものが触れる。
何が起きたのか分からずに、リーシェは息を呑んだ。
永遠とも思われる数秒ののち、重ねられていたアルノルトのくちびるが離れた。次いで落とされたのは、囁くような声だ。
「馬鹿だな、お前は」
彼は、仕方のない者を見るまなざしをしていた。
その声は、幼子に言い聞かせるように穏やかだった。ただし、どこか寂しさにも似たものを滲ませながら。
「……俺の妻になる覚悟など、しなくていい」