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【7章2節】
リーシェが着替えたドレスの色は、恋情を捧げた男性の髪と同じ、美しい黒色だった。
首筋から胸元に掛けてはレースで覆い、鎖骨のラインまでを上品に隠して、真珠貝で模った蝶の首飾りを重ねる。
腰回りを幅の太いベロアのリボンで飾れば、その下に広がる裾のシルエットが強調されて、開き掛けた花の蕾のような優雅さを醸し出せるのだ。
肩口からふわりと膨らんだ袖も、見事な曲線を描いている。肘の辺りでボタンを留めて絞り、手首までの素肌を露わにして、代わりに薄いレースの手袋を着けた。
手袋の上、左手の薬指に輝く指輪を除いては、黒の一色で揃えた装いだ。
ともすれば、死者を弔うための衣服とも取られ兼ねない色合いである。それでも重苦しくなりすぎないのは、ドレスが艶やかな光沢を帯びているからだ。
リーシェが一歩踏み出すと、涼やかで軽い生地で仕立てられたドレスの裾が、柔らかに揺れる。
珊瑚色の髪をハーフアップに結い、両の耳には首飾りと同じ、蝶の形をした真珠貝の飾りを着けた。
その上でリーシェは微笑んで、彼を呼ぶ。
「お待たせいたしました。アルノルト殿下」
「…………」
アルノルトは僅かに目を伏せると、リーシェの手を取りながらこう紡いだ。
「……何も、着替えまでする必要はなかった」
「あら。殿方のお考えでは、そうかもしれませんが」
エスコートをしてくれるアルノルトに従いつつ、リーシェは敢えて首を傾げる。
「相応わしい装いは必要です。だって……」
立ち塞がるのは、重厚な扉だ。
「いよいよ殿下のお父君――アンスヴァルト陛下への、謁見なのですから」
「――――……」
アルノルトの青い海色の双眸には、暗い光が宿っている。
扉の向こうにある謁見の間で、リーシェはその男に相対するのだ。
(アンスヴァルト・ヴェルフ・ハイン陛下。……御年四十一歳になられたという、アルノルト殿下のお父君)
この国の『現皇帝』が重ねてきた所業を、リーシェは僅かにしか教わっていない。
それでも、ガルクハイン現皇帝アンスヴァルトの行いには、数々の思いを抱えてしまう。
『この瞳は、俺が父帝の血を引いている証明でもある。……子供の頃は、いっそ両目とも抉り出してしまいたいと思っていた』
(私は、アルノルト殿下がそれほどまでに強い感情を示されるお相手を、他に知らない)
手袋越しにアルノルトと重ねた手を、きゅっと小さく握り締める。
(お母君に関するお話には、寧ろ一切の感情を示されず、淡々となさっていらっしゃるのに。……だからこそ)
リーシェは真っ直ぐにアルノルトを見上げ、ねだるのだ。
「どうか私を、お父君のもとへとお連れください。アルノルト殿下」
「…………ああ」
そして、扉は開け放たれた。
最初に視界に映るのは、血のように赤い絨毯だ。黒い大理石の床へ真っ直ぐに伸びた道、その先に続く階段の先には、豪奢な玉座が据えられている。
そこにはまだ、皇帝アンスヴァルトの姿はない。
だからこそ、異様なほどに静まり返った謁見の間には、痛いほどの緊張感が満ちていた。
(今からおおよそ、百年前)
アルノルトに導かれ、リーシェは静かに歩を進めてゆく。
(アルノルト殿下にとっての高祖父であらせられるお方が、当時はまだ小国だったガルクハイン国の王家を滅ぼして周辺諸国を取り込み、皇帝となられた。――歴史書には、そう記録されているわ)
大きな円柱に支えられた天井は高い。頭上一面に描かれた荘厳な絵は、クルシェード教の祀る女神の婚姻を祝福する天井画だ。
だが、この場所の主が女神など敬っていないことを、リーシェは既に理解している。
(この国の皇族となったハイン家の皆さまは、それぞれに素晴らしい才をお持ちだったと記録されている。その中でも特筆されているのは、歴代の皇帝となった方々の、卓越した軍略と剣術の技能……)
絨毯の左右に立ち並ぶ燭台は、繊細な細工の彫り込まれた黄金で作られていた。
リーシェたちが通り過ぎると、蝋燭の火が陽炎のようにゆらゆらと揺れて、まるで内緒話をしているかのようだ。
(アルノルト殿下のお祖父さまの代から、この国は本格的に領土の拡大を始めた。周辺国はすべてガルクハインに敗戦し、この国の一部となってしまって、別の国だった面影すら残っていないわ。そして)
玉座の後ろに掲げられるのは、国章である鷲と剣の紋様を描いた旗だ。
(ガルクハインはこの二十年ほどで、歴史上でも類を見ない速度で領土を広げ、世界屈指の大国となった)
アルノルトであれば、謁見の間をこんな造りにはしない。
内心でそんなことを考えながら、リーシェは象牙造りの玉座を見据える。
(アルノルト殿下のお父君が、皇帝となられてから……)
もうすぐ、皇帝アンスヴァルトがここに現れる。
リーシェはドレスの裾を摘み、衣擦れの音をひとつも立てず、柔らかな絨毯の上に跪いた。
「リーシェ」
傍らのアルノルトが、それを引き止めるかのように呼んでくれる。
「あの男を待つのに、ここで膝をつく必要はない。お前は人質ではなく、俺の妃だ」
「いいえ。アルノルト殿下」
リーシェは胸の前で両手の指を絡ませると、アルノルトにふわりと微笑んだ。
「私が尽くせる全ての礼節を、あなたのお父君である皇帝陛下に」
そう口にしてから笑みを消し、代わりに強い決意を込めて、アルノルトの青色を真っ直ぐに見上げる。
「仰る通り。――私はここへ、あなたの妻として来たのです」
「…………」