271 砂漠の宝石
『その織り物の素晴らしさ、存分に味わっていってくれ。砂漠を越えるのにお前が恐るべきものは、これで何ひとつなくなった』
登りつつある赤い太陽が、広大な砂漠を照らし出す。ザハドはそちらに視線を向けて、腰に下げた剣の柄に手を置いた。
『命知らずが、俺の大事な客人たちを襲い来るかもしれんがな。そのような者が現れても、心配はいらん』
(……やっぱり、ザハド陛下が直々に護衛をしている理由は……)
ザハドは再びリーシェを見下ろす。
くちびるには、先ほどまでと同じ笑みが浮かんでいた。だというのに、その紅玉のような双眸には、暗い炎が燻っている。
『――お前たちに害をなす敵は、すべて我が手で殺してやる』
『……!』
ぞくりとした感覚が背中に走り、リーシェは小さく息を呑んだ。ザハドが商人たちを振り返り、冗談めかしてこう尋ねる。
『砂漠の長い旅路の中では、それくらいの襲撃も余興というものだ。そうは思わんか?』
『仰る通り。これもすべては、王と兵のお強さあってこそです!』
(……優しく寛容であらせられるように見えて、苛烈で好戦的なお方)
こうして庶民に笑い掛ける様子も、先ほど見せた暗い炎も、どちらもザハドの一面なのだ。
(朗らかに人を暖めることもあれば、容赦なく焼き払うこともある。まさしく炎のような王だけれど、こうして直々に商人の護衛に出ていらっしゃるのは、戦いを好まれるからというだけではないはず)
ここに集まった商人たちは、世界中を回る商会ばかりだ。ハリル・ラシャでの商いが終われば、この地で仕入れた品物を積み、再び何処かに旅立ってゆく。
その先々で、ハリル・ラシャの土産話や商談の一環として、王とその兵の話をするだろう。それを耳にした人々は、物語めいた噂話に慄くはずだ。
(ご自身がお持ちの圧倒的な武力を、世界中に散らばってゆく商人に見せ付ける。そうすることで、ハリル・ラシャの強さと勇猛果敢な軍のことを、すべての国へと知らしめる……紛れもなく、国防に繋がる戦略だわ)
馬へと戻ってゆくザハドの背中を見送り、朝陽の眩さに目を細める。
(このお方が、ハリル・ラシャの王)
それでも、馬上で改めてリーシェに笑い掛けたザハドの表情は、まるで無邪気な少年のようだ。
***
砂漠を渡り終えたあとのリーシェは、おいそれとザハドに会える立場ではない。
いずれ商談の機会が巡ってくるとしても、本来ならば数年単位の月日を経てからだっただろう。しかし、辿り着いたハリル・ラシャの大きな市場で、リーシェは様々な経験をすることになる。
職人たちの工房への泊まり込みや、工芸品の見分け方の習得。歴戦の商人との駆け引きと、香料や薬草に関する勉強。
襲ってくる盗賊から身を守る方法を学び、令嬢時代からこっそり練習していた剣術の訓練も再開して、日々たくさんの人に出会った。
特に大きな転機となったのは、巨大な市場の主に無理難題を出され、とある店の品物を『一週間以内に完売させる』という賭けに乗ったことだ。
リーシェは大いに悩み、考え、やがてひとつの戦略を思いついた。
市場をまるごと劇場に見立て、歌や踊りを披露しながら、話術で品物を魅せてゆく。店主が商い下手だっただけで、質は一級品だった商品は、日数を経るごとに売れ行きを伸ばしていった。
目玉の品をオークション形式に切り替えた最終日、市場中の人々から買い手を募った大賑わいは、王宮の壁を超えて届いたらしい。
『――城下で愉快な商いをしてみせた「異国の女商人」とは、やはりお前のことだったか』
『ザハド陛下……』
謁見の間で再会したその王は、タリーと共に招かれたリーシェを前に、玉座へと腰を下ろしていた。
『それを見込んで、お前たちアリア商会に頼みたい商談がある。ケイン・タリーよ、その者を借り受けても構わないか?』
『もちろんです、とお答えしたいところですが……何分これもまだ見習いに過ぎず、ご期待にそぐえないとあれば一大事。どのようなご命令であらせられるか、お伺いしても?』
リーシェを庇うタリーの言葉に、ザハドは不敵に笑って言った。
『――この国の地下神殿に隠されてきた、国宝にまつわる商いだ』
『…………!』
その商いのことを思い出すと、リーシェは今でも心が湧き立つ。砂漠を毎日駆け回り、大勢の人と人を繋いで、忙しくも本当に楽しかった。
もちろん『商談』の締結には、タリーたちの力を多大に借りた。
リーシェが出来たことなど一握りだが、ザハドはリーシェを気に入ってくれて、懇意にしてくれるようになったのだ。
リーシェが最も得意だった商いは、宝石の売り買いに関するものである。
いずれ王太子妃になる人間として、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。審美眼を養うことも例外ではなく、何よりもリーシェ自身が宝石を愛していたのだ。
世界中の貴族、とりわけ王族の求める石がどのようなものか、リーシェにはよく分かっていた。
そしてザハドも宝石を愛し、リーシェが彼のために仕入れてきた石を見せれば、喜んで笑ってくれたのである。
『まさか此度は、光の種類によって色の変わる石とはな。宝石の価値を左右する「色合い」が変わるなど、屑石と判じる者も多かろうが……』
『コヨル国で発見されたばかりの石を、最初にザハド陛下にお見せできてよかったです。陛下が高額をつけてくださったお陰で、世界におけるこの石の価値が決まりました』
『っ、ははは! お前は本当に、品物を育てるのが上手い商人だ!』
ザハドはとても気さくな人物で、リーシェと商談を重ねるうち、友人のように接してくれるようになった。
『お久し振りです、ザハド陛下。今回の滞在でも、陛下にご満足いただける商談を…………あ!』
『未だに俺のことを「陛下」呼ばわりし、他人行儀な口を利くとは。仕置きとして今日の酒宴では、お前が偽のサファイアを掴まされた一件を話すように』
『新人の頃の失敗の話は、すっごく恥ずかしいって言ってるのに……!』
一介の商人が酒席を共にするなど、本来は許されるはずもないことだ。
それなのにザハドは、リーシェがハリル・ラシャを訪れる度に、心から楽しそうに話を聞いてくれた。
『――お前の目を通して見た「世界」の話を聞くと、心が躍る』
煌びやかな絨毯に腰を下ろし、月の映り込んだ杯を掲げて、ザハドは笑う。
『お前は我が人生における、朗らかな歌だ。世界中を描き出す絵画でもあり、夢へと誘う舞のようなものでもある。それから……』
『ザハド?』
『……なんでもないさ』
少しだけ酒に酔ったのか、ザハドは赤色の双眸を隠すように、微笑みのままゆっくりと目を閉じた。
『俺の傍に閉じ込めて縛り付ければ、その輝きは失われてしまうのだろうな』
***
リーシェがザハドと深く関わったのは、この商人の人生一度きりだ。
薬師や錬金術師の人生でハリル・ラシャを訪れたときも、騎士人生でハリル・ラシャが海戦の演習相手だったときも、ザハドと直接の接点があった訳ではない。
だからこそ、こうして七度目の人生で『再会』したザハドのことを、心から懐かしく思っている。
「――あのアルノルトが望んだ花嫁が、まさかこのようなご令嬢だとは!」
模擬戦のあと、汚れてしまったドレスを急いで着替えたリーシェは、応接室でザハドと向かい合う長椅子に座っていた。