270 かつて親友と呼んだ人
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一度目の人生で『彼』に出会ったのは、初めて砂漠を渡った日のことだ。
タリーたちとラクダを引いてきたリーシェは、砂漠の入り口に集ったいくつもの隊商が集う様子を見て、わくわくと瞳を輝かせていた。
『すごいです、タリー会長……!』
あと少しで夜明けが訪れる砂漠も、今はまだ夜の闇に沈んでいる。
出立の準備を終えた商人たちは、目印となる焚き火の周りで談笑しながら、商いの情報を交わしていた。
『先日お話をしてくださっていた通り。異なる商会の隊商が、こうして同じ時間に集まって、みんなで砂漠を越えるのですね!』
少し離れた砂の上では、それぞれの連れているラクダたちが繋がれて、何十頭も並んだ影が見える。
これほど大規模な一団となっているのは、複数の商会が合流しているためだ。リーシェにとっては初めての光景に、ついつい好奇心が疼いてしまう。
『砂漠超えの最中には、危ねえ区域も通過するからな』
上司のタリーはラクダを引きつつ、別の商会長に手を振った。
『獰猛な狼や、人を狙う毒蛇。広大な砂漠の中でも、そいつらの生息区域を避けて通ろうとすれば、自然と経路は絞られてくるって訳だ』
『……そして、限られた安全な道を通る旅人を狙い、盗賊が待ち構えている……』
表情を曇らせたリーシェの前で、タリーがひょいと肩を竦める。
『ましてや俺たちのような商人なんざ、賊の良い餌だ。かといってそれぞれの商会ごとに護衛を頼めば、その分高く付く。挙げ句の果て、その護衛が賊の仲間ってこともザラだからな』
『それを思うと、この国の対策は素晴らしいです』
リーシェは自分のラクダを撫でながら、改めて周囲の商人たちを見回した。
『多くの商会が費用を出し合って、合同で隊商を護衛いただくのですもの。しかも今日の護衛は、民間の傭兵などではなく――……』
そのときだった。
『おい、いらしたぞ!』
『!』
商人のひとりが声を上げる。
それまで顔馴染みたちと話し込んでいた商人たちは、一様に砂の上に跪き、深々とそちらに頭を下げた。
もちろんリーシェたちも同様に、東の方角へと跪く。
聞こえるのは、馬がゆっくりと歩いてくる蹄の音だ。俯いたリーシェが瞑目していると、馬上からはっきりと通る声がした。
『よく来たな。この砂漠に、新たなる息吹を呼ぶ者たちよ!』
その言葉は、夜明けが目前に迫った砂漠に響き渡る。
砂漠で騎馬隊を率いることが出来るのは、富を持つ権力者だけの特権だと聞いた。ラクダよりも早く走る代わり、食料や水を多く必要とする馬の足音が、いくつも砂上を歩いてくる。
『さあ、顔を上げよ』
(――――……)
耳にするだけで人心を惹く、そんな強さを持った声だ。
許しを告げられ、商人たちが身を起こす気配を感じた。リーシェも数秒の時間を置いて、ゆっくりと視線を『彼』の方に向ける。
『恐れることはない。お前たちの命と財は、必ずや守り抜くと誓おう』
銀狼の描かれた大きな旗が、涼やかな風に翻る。
馬上の男は、その旗の持ち手を勇ましく肩に掛け、堂々とこちらを見下ろしていた。
『!』
そしてリーシェは、暗闇に浸された砂漠の中に、鮮烈な赤い光を見る。
(……朝焼けの、赤色が……)
登りゆく朝陽を背にした男は、各国から集った商人たちを前に、自らの立場を名乗るのだ。
『――すべては、この地の王たる我が名のもとに』
(砂漠の国ハリル・ラシャの王。……ザハド陛下が直々に、隊商の護衛をして下さるなんて……)
最初にその話を耳にしたときは、信じられない気持ちでいっぱいだった。
けれどもこうして目の当たりにすれば、もはや疑う気持ちにすらならない。かの人が国王ザハドであることは、一目瞭然とも言えるのだ。
『我が国ハリル・ラシャは、力のある者を必ずや勝利へと導く国だ。勇気ある汝らの商いは、素晴らしき結果をもたらすだろう』
この場に集まった商人たちは、高揚感に包まれていた。みんなこの後の商いに希望を抱き、胸を躍らせながら、国王ザハドにまなざしを送っている。
彼の言葉には、そうした力があるのだった。
『もうじき我が臣下たちがこの場に揃う。各々支度をし、出立に備えよ』
『有り難う存じます、陛下!』
明るみ始めた空の下、商人たちが最終準備に取り掛かる。それを満足そうに眺めるザハドに、リーシェはほうっと息を吐いた。
『リーシェ。うちの隊商の連中を呼んでくる、お前はここで待機してろ』
『はい、会長!』
タリーのラクダの手綱を預かり、リーシェは二頭分の手綱を握った。リーシェの頭に鼻先でじゃれついてくるラクダをあやしながら、周囲の様子を観察する。
(みんなの高揚感が、さっきまでとまるで違うわ。だけど、ザハド陛下が直々に護衛をなさる理由はきっと、それ以外にも……)
そんなことを考えていると、ザハドが不意にリーシェを見遣る。
(あ!)
ぱちりと視線が重なってしまい、リーシェはすぐさま礼の姿勢を取った。
ザハドは気軽に馬を降りると、馬の背に積んでいた美しい刺繍の入った織り物を引き抜き、リーシェの方に歩いて来る。
『俺が護衛をする際には、見掛けたことのない顔だな。砂漠の商いに淑女が同行してくるとは、珍しい』
『お初にお目に掛かります。ザハド・サイード・シャムス・ラシャ陛下』
当時のリーシェは心から、初対面の挨拶をザハドに向けた。
(護衛なさったことのある商人の顔を、すべて覚えていらっしゃるのだわ。その上に、こうして声を掛けておられる)
『ハリル・ラシャ式の礼を覚えてくれているとは。我が国への敬意を感じ、嬉しく思うぞ』
『生憎と、まだ書物で読んだだけの身でして……。この旅路で実際の所作を学ぶ機会を、楽しみに思っております』
するとザハドはにっと笑い、リーシェの前に膝をつく。
そうして手にしていた真紅の織り物を、リーシェの肩へと羽織らせた。
『っ、陛下!?』
いくつもの花や果実の混ざった涼しげな香りと共に、リーシェはすっぽりと織り物に包まれてしまう。
この香りは、ザハドの付けている香油によるものだろうか。商機に思考を巡らせそうになってしまうものの、それどころではない。
『あの、こちらは』
『今朝は少々冷え込むからな。陽が登り切るまでは、これをその身に羽織っているといい』
『滅相もございません! 羽織り物でしたら準備しておりますので、どうかお気遣いをなさらぬよう……』
『構わぬ』
立ち上がったザハドに手を差し出され、躊躇いながらもそれに応えた。するとザハドは、目の前に立ったリーシェに告げる。
『これは我が国の誇る織り物だ。濡れてもすぐに乾くのに、軽くて暖かい』
『……仰る通りですね。何よりも、とても美しいです』
その細やかな金糸の刺繍に触れて、リーシェは微笑んだ。
『世界中の、あらゆる貴婦人が欲するであろうほどに』
『……さすがは、ケイン・タリーがわざわざ俺の国に見せに来た「新顔」だな』
上手くその意向を汲めたらしきリーシェに、ザハドは目を眇めて笑った。