267 妙な気配に満ちています!
黒色の軍服姿に着替えたアルノルトが、石造りの階段を降りてくる。しかし、リーシェが感じ取ったのは、アルノルトのものではない。
急いで彼に駆け寄って、テオドールを心配させないように囁く。
「殿下。こちらの妙な気配……」
リーシェにすら察知できるような気配を、アルノルトが読んでいないはずもない。
だというのに、青い瞳はこちらを見下ろして、静かに告げるのだ。
「すぐに終わる」
「……?」
アルノルトはそのまま何も答えず、庭園の奥にある展望台へと歩を進めた。
リーシェは口を噤み、太ももに隠した短剣をいつでも抜けるように覚悟しながら、ぱたぱたとアルノルトの背中を追う。
そして、アルノルトに並んで見下ろした城内の光景に、息を呑んだ。
「――あれは」
ガルクハインの皇城は、主城が最も高い位置にある階段状の造りをしている。
この庭園は皇城の中腹に据えられているため、展望台からは皇都だけではなく、皇城の最下層である訓練場なども一望することが出来るのだ。
その外周の一画に、数十人の見慣れない影がある。
彼らは明らかに兵だった。だが、白を基調とした煌びやかな布の衣服は、ガルクハインの騎士が纏うものではない。
「砂漠の国、ハリル・ラシャの軍隊」
かつての人生で親しんだ国の、王宮兵だ。
そんな彼らが、各々に湾刀を武器として携え、木々や城壁などの死角に散っている。これが意味することは、明白だ。
「どうしてガルクハイン皇城で、戦の陣立を……!?」
戦場で見た炎の光景が、脳裏を過ぎった。
(戦争。いいえ、だとしたら)
アルノルトが前線に出ることなく、リーシェの傍にいることは有り得ない。答えを求めて彼を見上げれば、落ち着いた声音が返ってくる。
「――本来なら、こんな『訓練』など意味も無い」
「!」
アルノルトの言葉に、リーシェはすぐさま理解した。
(これは、ハリル・ラシャの兵と行う演練なのだわ。だから、軍隊が動いているのに殺気はない、妙な空気が……)
「近衛騎士に、他国の兵と剣を交える機会を与える程度のものだ。だが」
青い瞳を僅かに眇め、アルノルトが一点を真っ直ぐに見据えた。
「あの男にとっては、そうではないらしい」
「…………」
心の底から面倒に感じているような、そんな冷たい声音が紡ぐ。
そしてリーシェも、数十人の兵たちを率いてその先頭に立つ、ひとりの男性に目を向けるのだ。
『――私ね。商人になってから、生まれて初めて「将来の夢」が出来たの』
男が身に着けたハリル・ラシャの伝統衣装は、白い絹糸で織られた生地がふんだんに使われた、華やかな造りだ。
『へえ。そいつはなんだ?』
詰襟の軍服にも似た形を基調にしながらも、その上衣の裾はマントのように長く、砂丘のなだらかなラインを思わせる。
肩口から流れ落ちる飾り布は、見た目にも優雅で洗練された印象を与えるが、砂や陽射しを遮る防護にも使えるものだった。
裏地には特別な染色技術が用いられ、表の眩い白とは裏腹に、鮮やかな赤の紋様を描き出している。
『世界中にある、すべての国に行ってみたい』
美しい褐色の肌を彩るのは、黄金を用いた装身具と、彼が好んでいる宝石の数々だ。
リーシェは商人だった人生で、たくさんの宝石を彼に届けた。
一番の取引先とも言えたこの客は、いつしかリーシェの親しい友人となって、たくさんの言葉を交わすまでになったのである。
『自分の足で街を回って、市場を見て、そこで生きてる人の笑っている顔を見てみたいわ!』
『…………』
かつてのリーシェは、砂漠に沈む夕陽を前にそう告げた。
そのとき、男は人好きのする笑みを浮かべたまま、こう言ったのだ。
『……ならば俺は、お前から見たこの国を、世界中の何処よりも価値のある国にしよう』
『?』
かの国では太陽とたとえられる赤い瞳に、強い意志の光が宿っていたことを、リーシェは今でも覚えている。
『何処に行かなくとも、全てがこのハリル・ラシャにあると。……他の世界など必要ない、そう思わせるほどの大国に育て上げ、お前の心をこの地へと惹き付ける』
『ふふっ。なあに、それ!』
眩いほど鮮やかな銀糸の髪。
前髪を中央で分け、はっきりと顕になった形の良い眉は、好戦的な印象を他者に与える。
それでいて気品を損なわないのは、彼の所作が豪胆かつ優美であることや、放たれる品格ゆえだろうか。
瞼のラインが上向きに跳ねた目は、まなじりにほんの少し赤色の化粧が施されていて、彼の持つ神秘的な精悍さを強調している。
『待っていろ。リーシェ』
その光景を思い出しながら、それを決してアルノルトに悟られないよう、リーシェは眼下の王を見下ろした。
『それこそ、俺がお前に贈る、世界で最も大きな宝石だ』
過去の人生と変わらない彼の双眸が、真っ直ぐにアルノルトを見据えているのが、よく分かる。
(――――ザハド)
リーシェが彼のことをそう呼び捨てると、ザハドはいつも、嬉しそうに笑った。
かつての親友とも呼べた王は、その口元に不敵な笑みを浮かべ、湾刀をゆっくりと鞘から抜くのだ。
そうして宣戦布告のように、剣先をアルノルトへと突き付ける。
「……アルノルト殿下」
「一度、テオドールを連れて下がっていろ。こちらの騎士と奴の兵は、大半が相討ちになるだろうが――」
凪いだ海のようなアルノルトの双眸に、ほんの僅かな殺気が混じる。
「あの男だけは、俺の居るこの庭園に辿り着く」
「…………」
***
「待ち侘びたぞ。アルノルト」
ハリル・ラシャの王ザハドは、上方の庭園から見下ろす『宿敵』を見据え、くっと笑って目を細めた。
(あれが、アルノルトの選んだという……)
八の月の日差しが逆光となり、女性の姿ははっきりと見えない。
けれども『彼女』はアルノルトに対し、何かを告げたようだ。かと思えば、ぱっと何処かに駆け出して、ザハドからは姿が見えなくなってしまう。
(無理もない。演練といえど、こうした戦いを眺めることなど、ご令嬢にとっては恐ろしく映るものだろうからな)
あまり長引かせるつもりはない。訓練場に配置された近衛騎士たちの数から見て、アルノルトも同じ考えだろう。
「……どれ」
ザハドは朗々と声を張り、自らの兵に告げる。
「婚儀の前の景気付けだ。――盛大に、打ち合ってやろうではないか!」
ハリル・ラシャの王宮兵たちが、ガルクハインの騎士へと斬り掛かる。




