266 お会いする必要があるのです(267話は目次の次ページ)
【第7章1節】
『彼女』はそのとき、たったひとりで窓辺に立って、そこからの景色を見下ろしていた。
薄暗い部屋の中、長い睫毛に縁取られた双眸が見詰めるのは、広大な皇都の光景だ。
手を伸ばしても触れられない、冷たい硝子に隔たれた景色を前にして、彼女は視線を少しだけ動かす。
「…………」
硝子窓に映り込んだ白い胸元には、大粒のダイヤモンドが揺れていた。
けれども彼女は、それには意識を向けることすらせず、そこから見下ろすことの出来る中庭を見据える。
そうして、小さな声でぽつりと呟くのだ。
「…………『ガルクハインの、幸せな花嫁』」
言葉はまるで氷のように、跡形もなく消えてゆく。
彼女が窓辺を離れてからも、首飾りの美しい宝石は、僅かな光で輝きを放ち続けるのだった。
***
「――さすがは、アルノルト殿下の弟君!」
リーシェが庭園でそう微笑むと、向かいの席に座るテオドールは、ティーカップを手にしたままたじろいだ。
「と、当然だろ……!!」
テオドールからの報告会を行なっているのは、以前、錬金術師のミシェルに花火を見せた庭園だ。
このあと『来客』があるというのに、アルノルトはそれまでの短い時間、公務を処理しに行ってしまった。
リーシェは彼を待つ間、この庭に白いテーブルを出して、事業の進捗に耳を傾けている。
「爪紅の量産体制くらい、簡単に組めるに決まってる。義姉上がエルゼたちに説明してたお陰で、エルゼたちが爪紅を作れる訳だし……!」
テオドールが照れ臭そうに視線を逸らした先は、ここから見下ろせる皇都の景色だ。
「教育係として侍女の教科書を作ってるディアナが、エルゼとすごく仲良いし。義姉上たちが留守にしてる間、みんな暇だったでしょ? だから協力してもらって、貧民街の人間にも分かりやすい手順書が出来たってだけ!」
パラソルで作った日陰の中、リーシェはくすっと笑いながら、義弟の弁明に耳を傾ける。
「義姉上とディアナが考えた『教科書』と同じように書けば、文字が読めない貧民街の連中でも、みんな同じ手順で爪紅が作れる。これくらい、誰だって思い付くことだよ」
「いいえ。ディアナたちに更なる実績が出来たことも、それを新しい事業に活かせるということも、テオドール殿下の手腕と采配あってこそです」
「……っ、そ、そんなことより!」
テオドールは急いでティーカップを戻すと、顰めっ面で身を乗り出した。
「義姉上、本気で父上に会うつもりなの?」
「!」
率直な問い掛けに、リーシェは目を丸くする。
「やめておいた方がいいよ。これ、兄上のことを警告したときと違って、脅しじゃないから」
(……アルノルト殿下が、未来で殺すお父君)
言葉ではっきりと答える代わりに、そっと目を伏せて思考を巡らせた。
(各国から、人質としての妃を集めたお方。ご自身の血を強く引く、『黒い髪に碧眼を持つ』御子しか生きることを許さない、この国の現皇帝)
父親を語るときのアルノルトは、その海色をした青い瞳に、いつも暗い光を宿らせる。
(アルノルト殿下の母君も、皇帝陛下の犠牲者のおひとりだわ。……アルノルト殿下は、そんな母君を知る存在から私を庇って、燃える船上でお怪我をなさった)
運河の街ベゼトリアでの光景を思い出すと、それだけで背筋が凍るような心地がする。
あのとき、フード姿で身を隠したひとりの男が、アルノルトに剣を突き立てて告げたのだ。
『――その美しい面差しが、お母君によく似ていらっしゃる』
リーシェはそっとドレスの裾を握り締め、くちびるを結んだ。
(アルノルト殿下が戦争を起こす理由に、父君や母君との確執が影響しているのかはまだ分からない。けれど今のままでは、アルノルト殿下は必ず未来で戦争を起こしてしまう)
リーシェには未だ、彼の意思を揺るがすことすら出来ていない。
そんな事実を、運河の街で思い知ったのだ。
(アルノルト殿下の凶行の始まりが、父殺しによる皇位簒奪であるからこそ……)
顔を上げ、テオドールにはっきりと告げる。
「どうしても、お会いしておきたいのです。皇帝陛下に」
「…………」
テオドールは、リーシェを案じてくれているのだ。
それが分かっていても尚、撤回する訳にはいかなかった。テオドールは何か言い掛け、それでもすぐに諦めて、深い深い溜め息をつく。
「……絶対に、危ないことしないでよ」
「はい。ありがとうございます、テオドール殿下」
その配慮が嬉しくて頷くと、テオドールはびしりとリーシェを指差した。
「謁見のときは、兄上の言うことをよく聞いてよね! いつもの義姉上は禁止、いかなるときも兄上の傍に居て! 兄上の予想がつかない行動取らないで! 何かあったとき兄上が対処できるように大人しくして、僕との約束だからね!」
「わ、私のことを幼な子だと思っていらっしゃいますか!?」
とはいえこれも、テオドールの心からの配慮なのだ。
現皇帝は、第二皇子であるテオドールに、直接声を掛けたことすらない人物である。リーシェだってあの殺気を感じただけで、思わず身が竦んだほどだった。
「まったくもう……。自分の婚儀が数日後に控えてて、今日だってもうすぐ『あの王』が来るっていうのに、義姉上って本当になんというか……」
「その件なのですが、テオドール殿下」
先ほどからずっと気掛かりだったことを、リーシェは尋ねる。
「ご来訪の時間をお伺いしたところ、アルノルト殿下は教えてくださらず。お迎えをする準備どころか、それまでのお時間でご公務をなさると、席を外してしまわれまして」
「……あー」
きょとんと瞬きをしたテオドールが、何かに納得した様子で肩を竦める。
「まあ、確かに『出迎える時間』は読みにくいんじゃない? ムカつくけど」
「読みにくい?」
「そうだ義姉上、折角だし僕と賭けようよ! いやでもどうせ義姉上も、あの王じゃなくて兄上のほうに賭けるか……僕もそうだし、賭けになんない」
「ええと、テオドール殿下。ひょっとして、何か楽しい遊びのお話をされて……」
そこまで言い掛けたところで、リーシェははっとした。
(――この気配)
言葉を発そうとする前に、名前を呼ばれる。
「リーシェ。……テオドール」
「!!」
テオドールがぴゃっと背筋を伸ばした。
リーシェはお茶会のテーブルを立ち上がり、こちらに歩いてくる人物を呼び返す。
「アルノルト殿下!」
「――――……」




