265 ただひとつの宝石
本日12月28日はアルノルトの誕生日です!
これよりルプなな7章スタートです。何卒よろしくお願いします!
【7章プロローグ】
リーシェの心は弾んでいた。
数日ぶりに戻った離宮の廊下で、珊瑚色の髪をふわふわと靡かせながら、ほんの少しだけ足早にその部屋を目指している。
(侍女のみんなのお仕事ぶりは、すっかり完璧だわ。私がベゼトリアに行っている間も、離宮はとってもぴかぴかだもの)
運河の街から皇都には、つい数時間前に到着したばかりだ。リーシェを出迎えた侍女たちは、描いた絵を見て欲しがる小さな子供のように、美しく磨かれた床や真っ白なシーツを見せてくれた。
(ディアナたちの教材は、皇城以外でもきっと重宝されるわね。数日後の婚儀でお越しくださるご夫人方に、是非とも紹介していかないと!)
そんなことを考えながら、水色のドレスの裾をそっと摘んで階段を降りる。そこに敷かれた赤色の絨毯にだって、埃や糸屑すら落ちていない。
(テオドール殿下とタリー会長による爪紅事業も、ここ数日で大きく進展したそうだから、早くお話を聞きたいわ。技術提携のためにコヨルからいらした大勢の職人さんも、シウテナに到着なさっているそうだし……)
カイルとミシェルから贈られた多くの積荷もあったと聞いて、その箱を覗き込みたい気持ちでいっぱいだ。けれども大勢の客人といえば、ガルクハインには更なる来客が予定されている。
(シュナイダー司教さまたちも、婚姻の儀の当日にお越しくださる。ミリアお嬢さまが出席したいと言って下さっていた件、ジョーナル閣下としてはお止めしたいようだったけれど……レオも心配していた通り、少し危ないものね)
それでもリーシェに会いたがってくれるミリアのことを思い、頬を綻ばせた。二階への階段を降り切ったリーシェは、ドレスの裾から手を離し、目的の部屋へと歩き始める。
(そういえば、ハリエットさまにお勧めしたい本も届いていたはず。……昨晩ヴィンリースの港に着いた船に、『本物』のカーティス殿下が乗っていらっしゃるとラウルも言っていたし、いまごろご兄妹でこちらに向かって下さっているかしら?)
ふたりに過ごしてもらう部屋には、たくさんの書物を運び込んでおきたい。兄妹がどんな顔をしてくれるのかを想像すると、今からとても楽しみだ。
(婚儀で歌ってくれるシルヴィアの警備も、もう一度見直しておかないと。グートハイルさまが絶対に守ってくださると分かっているけれど、心配だもの! ……ディートリヒ殿下にご参列いただくことに決めて、本当に大丈夫だったかしら)
ものすごく不機嫌そうだった『とある人物』の顔を思い出し、僅かに悩む。しかし、リーシェの故国の王族であるディートリヒが来てしまった以上、こうするのがきっと最適解だ。
(シャルガ国からも陛下たちが到着なさるはずだけれど、その前に、ヨエル先輩……。アルノルト殿下との手合わせを調整する約束のこと、ちゃんとお話をしておかなくちゃ。それに今日は、いよいよ彼にまた会える)
かつての『親友』とも言える王の姿を、脳裏に浮かべた。
(準備は万端だわ。ガルクハインに来てすぐに、お酒の準備も始めていたもの! あとは……)
左胸に、じわりと黒い畏れが滲む。
(――――謁見の準備)
強い殺気を思い出して、リーシェはゆっくりと立ち止まった。
(…………)
目の前には、重厚な扉がある。
リーシェは静かに扉へと触れ、何処か祈るような気持ちで、大切な人のことを思い浮かべた。
(……私が成すべきこと。成さなくてはならないこと。私自身の望む未来だけではなく、あのお方のために……)
そのとき、室内に向けて扉が開く。
リーシェが顔を上げると、中から姿を見せたのは、爽やかな微笑みを浮かべた男性だ。
「どうぞお入りください。リーシェさま」
「オリヴァーさま」
リーシェはぱちりと瞬きをして、思わぬ提案に首を傾げた。
「ですが、まだ試着後の調整中でいらっしゃるのでは?」
「そちらは既につつがなく。自分はこれにて退室いたしますので、あとはおふたりでお過ごしください」
「?」
オリヴァーに何らかの気遣いをされたと感じて、リーシェは首を傾げた。
忠実な従者が廊下に出たのと入れ違いに、落ち着いた色合いの調度品で揃えた衣裳部屋へ入る。
そうして、婚約者の名前を呼んだ。
「失礼いたします。アルノルト殿下」
「――――……」
部屋の中央には、この国の皇太子であり、数日後にはリーシェの正式な夫となる青年が立っている。
閉ざされた扉の前に立ったリーシェは、世界で最も美しい青色の瞳を向けられた瞬間に、思わずぱちりと瞬きをした。
「わ……」
いまのアルノルトが纏っているのは、どんな闇よりも深く静かな色合いをした、漆黒の軍服だ。
最上級の生地が用いられているその衣装は、彼が軍事大国と呼ばれる国の皇太子であることを象徴するかのように、重く厳格な雰囲気を帯びている。
肋骨を思わせる装飾も、そこに差された血のような赤色も、彼が戦場で剣を振るう人であることを想起させる威厳を放っていた。
その上で神々しいまでに華やかなのは、襟口や袖に至るまでの細部に、金糸の刺繍が施されているからだ。
衣装部屋の窓から差し込む陽光は、鳥や花を表す繊細な刺繍の模様を、本物の黄金のように輝かせている。
胸元に連なる数多くの勲章は、きっとそれでも、戦場で重ねたすべての功績を表すのに足りはしない。
左肩側だけを覆うマントは、軍服よりも軽やかな生地でありながら、こちらも吸い込まれそうな漆黒だった。
同様に金糸の刺繍が輝くそれは、恐らく彼が歩くのに合わせ、水に落ちた花のような優雅さで揺れるのだろう。
(アルノルト殿下が、数日後の婚姻の儀で、お召しになる衣装……)
その正装に身を包んだアルノルトが、青い瞳で真っ直ぐに、リーシェのことを見据えているのだ。
「…………きれい」
「…………」
そう口にすると、アルノルトが形の良い眉を顰めた。
「お前は一体、何を言っている」
「だって、すっごくお美しいんですもの……!」
我ながら、きらきらと目を輝かせている自覚はあった。高揚する熱を頬にのぼらせたリーシェは、大急ぎでアルノルトに告げる。
「とてもよくお似合いです。殿下がお持ちである静謐な気高さも、武人であるゆえの研ぎ澄まされた品格も、素晴らしく引き立つお召し物……」
アルノルトの周囲をそわそわと回り、どこかしこも美麗に整えられた彼の全身を確かめる。
「世界中から美しいものを探して、それをひとつところに集めたとしても、こんな輝きは放ちません!」
そうして再びアルノルトの前に立ったリーシェは、青い瞳を再び見上げる。
(寒い国の、冷たい海を凍らせた色の瞳を、冷たく綺麗に見せる漆黒……)
その黒を纏ったアルノルトを見据え、何処か現実味のない想いで呟いた。
「……本当にあなたのようなお方が、私の旦那さまになられるのですか?」
「………………」
ひとつ瞬きをしたアルノルトが、少し呆れたように息を吐く。
「あのな」
柔らかな声音が、リーシェを叱った。
その手を伸ばし、あやすように頭を撫でながら、確かな言葉でこう紡ぐのだ。
「お前以外の、誰の夫になるはずもないだろう」
「…………っ」
きゅう、と胸が疼いたのを感じて、リーシェは緩やかに目を細めた。
(だめ)
想いを決して悟られないように、慌てて気掛かりを口にする。
「お……お耳の飾りはどうされたのですか? あちらの……」
アルノルトのための衣装部屋には、最低限の調度品しか置かれていない。小さな円卓に乗せられたのは、淡いエメラルドを用いた耳飾りだ。
婚姻の儀のような式典では、男性もこうした宝飾を身に付ける慣わしがある。けれどもアルノルトは、こうした飾りをあまり好まないのだった。
「試すまでもない。――あれは、あれで十分だ」
「でも、ちゃんと合わせてみませんと。揺れるタイプの耳飾りですし、鎖の長さひとつで随分と印象も変わりますよ?」
リーシェはそっと手を伸ばし、アルノルトの両耳にそれぞれ触れてみる。
「アルノルト殿下のお顔立ちが、美しくて華やかでいらっしゃるだけでなく、衣装もこのように素晴らしいものですから……」
耳の形まで美しいアルノルトの、その耳殻や柔らかなところを指で辿って、リーシェはくちびるを綻ばせる。
「耳飾りはやはり、今回ご用意したような、一粒のものが一番お似合いになりそうです」
「…………」
アルノルトがじっと見下ろしてくる中、もうひとつ足りない支度を思い出して、リーシェはぱっと手を離した。
「あとは、剣ですよね!」
婚姻の儀にあたっては、鞘や柄の誂えを、宝飾を用いた華やかなものに変更して携えるのだ。
「私が殿下をあちこちにお連れしてしまっている所為で、ご準備がこんなに直前になってしまい。各国から賓客の皆さまがいらしている中だというのに、申し訳ありません」
「構うものか。客など二の次でいい」
「そういう訳には……」
黒い皮手袋をつけた手が、珊瑚色をしたリーシェの髪を緩やかに梳く。
「――父帝からの返事は、もう少し待て」
「!」
先ほど、扉の前でいだいた緊張を思い出して、リーシェは小さく頷いた。
(アルノルト殿下のお父君に、謁見する。そのことを、殿下は許してくださった)
数日前まで滞在していた運河の街で、リーシェはアルノルトに願ったのだ。
『私が、あなたの花嫁となるために。――あなたのお父君に、会わせて下さい』
アルノルトが父親に向ける感情については、少しずつであっても教えられてきた。
断られても仕方がないと覚悟していたリーシェに向けて、アルノルトは静かにこう返したのである。
『…………分かった』
『殿下』
アルノルトは、常と変わらない誠実さで、リーシェに約束してくれたのだ。
『父帝にその旨を願い出る。……謁見の許可が出ることまでは、保証できないが』
その返事は、まだ返っていないということなのだろう。リーシェは顔を上げ、アルノルトに微笑む。
「いつまででもお待ちします。……それに今日は、お父君よりも先にお会いしなくてはならない『お客さま』が、このあとお城にいらっしゃいますものね?」
「…………」
***
ガルクハイン皇都シーエンジスの市場を、ひとりの男が歩いていた。
口元に笑みを湛えた男は、彼にとっての異国であるこの国を、悠然とした足取りで歩いている。
絶対的強者としての余裕と、それでいて窮地すらも楽しんでみせそうな振る舞いは、衆目を集めるには十分なものだった。
「そこの色男!」
屋台の老婆が、見るからに上客であるその男に声を掛ける。
「遅い朝食代わりにどうだい。ガルクハイン産の、新鮮な林檎だよ!」
「おお!」
男は愉快そうに声を弾ませ、老婆の提案に身を乗り出した。
「実に美味そうだ、こちらをいただこう。……先ほどから目移りしていたのだが、美しいご婦人に声を掛けていただいたとあっては、迷う余地もあるまい」
「おや、まあ」
男は金貨を取り出すと、老婆にやさしく握らせる。その上で、彼女の目を覗き込んで、真っ直ぐに告げた。
「――誠実な仕事をする者の、美しい手だ」
「…………え」
男は、まなじりまで美しいラインを描く双眸を人懐っこく眇める。
「貴女のような民を見ると、これまで貴女が歩んで来られた人生を想い、こうしてひと時でも出会えたことに心が震える。――旅の喜びをありがとう、美しい婦人」
「…………!」
艶やかな赤い林檎を選び取り、男は喧騒の中を歩き始めた。
かしゅり、と瑞々しい音を立てて果実を齧り、前方に聳える皇城を見据える。
「この国は、美しい女性ばかりだな」
後方に付き従う従者に向けて、独り言のように語り掛けた。
「女を宝石に例えるなら。……かつてあの城には、世界中から一級の宝石を集めた、『後宮』とも呼べる塔があった」
過日のことを思い浮かべ、彼はくちびるの端を上げる。
「――さあて。我が宿敵、アルノルトよ」
男の手には、煌びやかな石の嵌められた指輪が輝いていた。
「お前が唯一欲したという宝石を、俺にも見せてもらおうか?」
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第七章 開幕




