番外編 リーシェに叱られることに興味のあるアルノルトのために頑張るお話
「アルノルト殿下、また……!」
「…………」
運河の街からガルクハインへと戻る前日、屋敷にあるアルノルトの寝室を訪れたリーシェは、机に向かっている婚約者の姿に慌ててしまった。
「傷に障るので、ご公務はお控えくださいとお願いしたのに……」
「この程度どうということはない。すぐに終わる」
「もう。駄目です!」
アルノルトはなんでもないことのように言い切るが、机上には数十枚ほどの書類が重ねられている。
「明日から馬車で帰るのですよ? ただでさえ懸念がいくつもあるのに……」
リーシェ自身が心配なのは勿論だが、何よりもアルノルトの体調が第一だ。
すると、アルノルトがペンを動かしていた手を止めて、彼の斜め後ろに立ったリーシェを振り返る。
「傷の治り具合は、俺よりもお前がよく知っているだろう」
「!」
あまりにもはっきりと告げられて、頬が火照ってしまうのを感じた。
(確かに殿下におねだりして、毎日何度も見せていただいているけれど……!!)
この件に関して、アルノルトにつきっきりの自覚はある。
たとえば朝起きたとき。アルノルトが公務で外出したあとの休憩時間、入浴後も、リーシェはアルノルトの治療を一任してもらっていた。
傷口を清潔にした上で乾燥させないよう、たっぷりの傷薬を塗った布をやさしく押し当てて、その上から包帯を巻く。
そうした治療中はまったく気にならず、とにかく心配の一念しか無いのだが、我に返ると複雑な心境が込み上げてくるのだ。
なにしろアルノルトは、リーシェが治療をしやすいように、上半身の衣服を脱いでくれている。
薬師としての行動中はちっとも意識していないので、こうしてなんでもないときに改めて傷口への詳しさを指摘されると、端的にものすごく恥ずかしい。
「と……とにかく駄目、いけません! めっ!」
「…………っ、は」
リーシェが慌てて切り替えると、アルノルトが少しだけ可笑しそうに笑った。
「……アルノルト殿下。ひょっとして、ご機嫌ですか?」
「ああ。そうだな」
「???」
思わぬ答えが返ってきて、リーシェは首を傾げる。アルノルトの行動を窘めるやりとりの、一体何処がお気に召したのだろうか。
「大したことではない。ただ」
「ただ?」
アルノルトはほんの僅かにだが、リーシェを挑発するようなまなざしを向けてくる。
「お前はこういう時に俺を叱るのかと、そう思っただけだ」
「――――あっ!!」
その言葉で、ご機嫌の理由に思い当たった。
アルノルトは、先日あったディートリヒについての会話以来、何故かリーシェに叱られることに興味を見せていたのだ。
アルノルトにしてみれば、この瞬間のやりとりこそ、試してみたかったことの結果なのだろう。
(さすがに、そのために公務をなさっている訳ではないご様子だけれど……!!)
アルノルトの考えていることは、心の底からよく分からない。
「わ、私を叱らせたいのであれば、殿下ご自身に不利益のあることではなく……私に不利益が出たり、私が嫌がるような内容でお試しください!」
「そんな方法は選ばない」
(ううっ、当たり前のように断言してくださる……)
アルノルトがこんな風に誠実だからこそ、リーシェがアルノルトを叱ることなんて、起き得るはずがなかったのだ。
(いけない、こうしている間にもどんどん書類を進めていらっしゃるわ! オリヴァーさまいわく、どれも急ぎではないご公務のはず。明日の馬車で書類仕事をなさるのはお止め出来なさそうだけれど、せめて今夜くらいはゆっくり横になってくださらないと、座った姿勢による傷口への負担が……)
そしてリーシェは、閃いた。
「では何か、別のことをして遊びましょう!」
「?」
アルノルトが双眸を僅かに目を眇め、不思議そうにする。
無表情の中に、こうして彼の感情が垣間見える事実が、リーシェにはとても嬉しいのだ。
「私に不利益が出ず、嫌ではないけれど困ってしまうことで、私を虐めてくださればいいのです」
「…………」
「そのようなことであれば、殿下も心置きなく意地悪が出来るでしょう? 困った私は殿下を叱れますし、殿下もご満足なさるのではないかと」
「…………待て」
アルノルトが眉根を寄せた様子から、先ほどと形勢が変わったのが分かる。今のうちに言葉を重ねて押し切ることで、説得することが出来るかもしれない。
「お体を休めていただきたいので、寝台に参りましょう!」
リーシェはアルノルトの手に自分の手を重ね、ぎゅっと握って引っ張った。
「そこでいかようにも、私に悪戯なさってください」
「おい。リーシェ」
「ドレスのリボンを解いて遊んでくださっても、私のほっぺをお好きにむにむにしていただいても、お好きなように。恥ずかしくて困ってしまうのですが、不利益はないですし、もちろん嫌でも無………………」
アルノルトを立ち上がらせようと促すも、リーシェはぱちりと瞬きをする。
「殿下?」
「…………お前な」
リーシェが捕まえていない方の手が、こちらに伸ばされた。
かと思えば、アルノルトはそれこそ叱るようなまなざしと共に、こんなことを言うのだ。
「――こうされることは、不利益だろう」
「ひゃんっ!?」
指先が、リーシェの首筋をつうっとくすぐった。
思わず声が引っくり返り、リーシェは両手で口元を押さえる。美しい形をしたアルノルトの指は、それでも剣を握る人のそれらしく、少しだけ皮膚がざらついている。
その手で悪戯されることを、アルノルトは不利益だと言ったのだ。
「そ、そんな、そんなことはないです……!」
「へえ」
「単純に、く、くすぐったいだけで……! んん……っ」
こしょこしょと肌をくすぐられている気がしたが、実際はリーシェの提案した通り、ナイトドレスの飾り紐を弄ばれているだけだった。
肩口で結ばれているレースのリボンは、肩紐の役目を担っていて、これに触れられるとリボンの端が鎖骨の辺りで揺れるのだ。
「は。……それで?」
「んむっ」
少しだけ楽しそうな声音と共に、今度は右手で頬を包まれた。
ふにっと軽く押さえられて、いつかのように遊ばれる。
「結局、俺のことを叱らないのか」
「横になって休んで下さっていないから、まだ駄目です……! っ、んん、殿下……!!」
そもそもが、これでも叱っているうちに入る気がするものの、アルノルトにとっては違うらしい。
リーシェの頬に当てられていた手が、今度は耳元をするりと辿る。そうして彼の低い声までもが、リーシェの耳へと触れるのだ。
「ほら。……嫌なら早く、嫌だと言え」
(だって、本当に嫌では無…………)
その瞬間、リーシェは気が付いてはっとした。
(――――また、やってしまったわ!!)
ぱっ! と急いで身を離す。
「も、申し訳ありません!! 度々の職権濫用を、大変失礼いたしました……!!」
「…………?」
リーシェによる『職権濫用』という言葉に、アルノルトは不可解そうな渋面を作る。
だが、くすぐることでの悪戯はやめてくれたようで、リーシェはこの隙に逃げ出すことにした。
「お待ちください! 寝台上の配置を工夫して、楽な姿勢でご公務をしていただけるように致しますので!」
「…………ああ」
謝罪を述べながら、ぱたぱたと寝台に駆け寄る。
(……いけないことだわ)
もふもふのクッションと枕を掻き集め、侍女時代の技術を駆使しながらも、決してアルノルトの方を見ることが出来ない。
(好きな人に、こんな口実で構っていただこうとするなんて……!)
今は恐らくリーシェの方が、アルノルトに叱られたい気持ちでいっぱいだ。
そのことは口にしないものの、アルノルトに背中を向けたまま、ごくごく小さな声で告げる。
「今度は何か、別の方法で、アルノルト殿下をお叱り出来ないか考えます……」
「………………あのな」
「?」
アルノルトは何処か苦い声を紡いだあと、それっきり何も言わなかった。
リーシェはせめてもの罪滅ぼしのために、書類仕事の補佐を頑張ろうと、寝台を整えてゆくのである。




