264 美しいもの(第6章・完)
淡く光を帯びているかのような純白のドレスは、リーシェの体のラインに沿った繊細なシルエットを描いている。
肩や鎖骨まで露わになるデザインだが、透けたレースもふんだんに使われていて、肌を出す部分と覆う部分のバランスが絶妙だ。
花蜜によって磨かれた肌が、夕暮れの日差しに照らされる、その輝きさえもドレスが強調してくれていた。
床に広がった長い裾は、まるでミルクの水たまりのようである。
これほどの布地を使っているのに、空気を含んでいるかのように軽い。リーシェが動く度に、ドレスはふわりと優雅に波打った。背中が大きく空いているドレスだからこそ、裾との対比がよく映えるはずだ。
全体に施されている刺繍と宝石は、この街の職人によるものである。
金糸と銀糸をふんだんに使い、立体的で細やかな刺繍がされていた。
美しい花々と舞い遊ぶ蝶だけでなく、星屑のように縫い付けられているのは、小さなダイヤモンドとサファイアだ。
「……この、サファイアは……」
リーシェは恥ずかしさに俯きつつ、先ほど針子たちから聞いたことを話す。
「職人さんが気遣って下さったのです。私が大切にしている指輪に、青いサファイアが使われていると知ったからだそうで……」
「……」
「だから、その。ええと」
アルノルトが何も言わないため、落ち着かない気持ちになってきた。
(ひょっとして、おかしなところがあったのかも……!?)
そんな不安が一気に募り、リーシェは慌てて彼を呼ぶ。
「アルノルト、でん……」
けれどもそのとき、不意にぎゅうっとその腕へと抱き留められて、リーシェはこくりと息を呑んだ。
「――これを」
「!」
耳元で囁かれる声は、いつもより低い。
「どうしても、人前に出さなくては駄目か」
「…………!」
少しだけ熱を帯びたようなその響きに、リーシェの顔が一気に火照った。
何処か切実な触れ方は、腕の中に閉じ込められているような錯覚を与える。賛辞を向けられているのだと分かっていても、リーシェは念のためおずおずと尋ねた。
「に……似合って、いませんか?」
「そんな訳がない」
アルノルトはリーシェの髪を撫でながら、少しだけ掠れた声を紡ぐ。
「言っただろう」
その声はとても甘やかで、大切そうにリーシェへと告げてくれた。
「お前は俺にとって唯一の、美しいものだ」
「〜〜〜〜……っ」
真っ直ぐな言葉を向けられたことに、体が熱くなるのを感じた。
腰の近くまで露出している自身の背中に、アルノルトの手が直接触れていることを意識してしまう。リーシェは髪を撫でられながら、火照りを隠すためにアルノルトへと顔をうずめた。
(『何度でもお嫁さんになりたい』という願いへの許しは、下さらない癖に……)
リーシェが恥ずかしくて拗ねたのに、アルノルトにやさしく名前を呼ばれた。
「リーシェ」
恐らくは、つむじのあたりにキスをされる。
驚いてすぐさま顔を上げたら、アルノルトはなんでもない顔でリーシェを見下ろしていた。彼の戯れで、どれほどリーシェの心臓が壊れそうになるかを教えてあげたい。
「うう……」
「……」
アルノルトは、リーシェを真摯に見据える。
「俺の言葉がまだ、足りないらしい」
「!」
そんなはずはないので、リーシェは慌てて首を横に振った。
しかし先日の誕生日、婚儀のために必要な練習として、アルノルトに贈り物をねだった身だ。好きな人にドレス姿を褒めてもらう幸福を、あまり享受する訳にはいかない。
リーシェは、ぷるぷる震えてこう答える。
「……職権濫用に、なってしまうので……」
「……」
リーシェがそう答えたことの意味など、アルノルトが知るはずもないだろう。
けれどもアルノルトは目を眇め、リーシェの左手を取ると、指輪を嵌めた薬指の先にキスを落としてくれた。
「ん……っ」
婚礼衣装から肌を晒した肩が、びくりと跳ねる。
リーシェは思わずアルノルトの袖を握り締め、願ってしまった。
「……もう一度……」
こんな風にねだるのは、とてもずるくていけないことだ。自覚していたのに止められなかったことを、アルノルトに叱られたりはしなかった。
けれどもアルノルトは、指先への口付けを繰り返すのではなく、リーシェの顎を指で掬う。
「――――!」
くちびる同士が重なるキスに、リーシェは目を丸くした。
それからすぐに細めてしまう。左胸がきゅうっと締め付けられて、さまざまな感情が綯い交ぜになり、アルノルトと指同士を絡めた。
(『練習のキスをもう一度』と、殿下にはそう伝わったのだわ。ドレス姿で練習したがっていると思われて、きっと、だからこそ……)
そのことが分かっていても、柔らかな口付けを繰り返されて心が疼く。一度くちびるが離れ、すぐさま再び重ねられて、リーシェは目を瞑った。
それから数回繰り返しても、ちっとも上手になれた気がしない。何度目かの口付けが終わったあと、リーシェは熱っぽい吐息を零して、思わずアルノルトにぎゅうっと縋り付き、顔を隠す。
「……意地悪……」
たくさんの言葉を押し殺し、どうにかそれだけを言葉にした。
アルノルトはリーシェの頭を撫でて、まるで何もかも分かっているかのような、そんな柔らかい声で告げる。
「――そうだな」
「……っ」
本当に、やさしくてとても意地悪な人だった。
『練習』のために口付けをしてくれるところ。それなのに、キスがちっとも上手にならないリーシェのことを、翻弄するようなキスをくれるところもだ。
(……いまの私が何よりも望む、アルノルト殿下との幸せな未来だけは、決して約束して下さらない……)
だからこそリーシェは、どうあってもそれを手に入れたい。
「アルノルト殿下におねだりしたいことがございます。……私が、あなたの花嫁となるために」
「……リーシェ?」
リーシェはアルノルトに回した腕の力を強くすると、こう口にした。
「あなたのお父君に、会わせて下さい」
「――――……」
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その夜、ガルクハインの皇都シーエンジスに、馬車の行列が到着した。
細部にまで装飾の施された馬車は、すべての馬にも華やかな馬具が付けられている。
馬車の中で足を組み、鮮やかな色合いのクッションに頬杖をついたその男性は、上機嫌で杯を飲み干していた。
「この都に訪れるのも、こうしてみれば久方ぶりだな」
先ほどから楽しんでいる酒は、彼が道中で旅をして来た国々において、庶民が好んで飲むというものだ。
その地の民に根付いた酒を味わい、彼らの風習に想いを馳せるのは、この男性がよく楽しむ飲み方でもある。
「それにしても、あのアルノルトが妻を娶るとは」
金色の杯を傍らに置いて、彼は上機嫌に目を細める。
「俺の後宮の話を聞き、蔑みの目で見てきたアルノルトの気を変えたのは、一体どのような女性だろうな?」
砂漠の国ハリル・ラシャの国王ザハドは、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「――お目に掛かるのが、楽しみだ」
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第6章・完
これにて6章はお終いとなります。
ここまでの内容が収録された書籍6巻が発売中です!
書き下ろし小説は『アルノルトが寝ている隣で、(手の甲への)キスの練習をこっそり頑張ろうとして、ちゅっちゅするリーシェのお話』
※アルノルトは途中でもちろん起きます
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