261 望まれるもの
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弦を引き絞ったリーシェは、ヨエルに斬り掛かる敵の脚を射抜いて動きを止め、アルノルトの後を追った。
ひどく揺れる船の中、アルノルトの戦い方は、船での戦いはそれほど経験したことがないのが信じられないほどに安定している。
(途方もない剣術の腕だけでなく、体の使い方も……!)
近衛騎士を置いて、アルノルトひとりだけが踏み込んできたのも頷けてしまう。
幾人もの船乗りが襲い掛かり、別の船から次々と現れようと、アルノルトの表情は変わらないのだ。
(けれど)
甲板には、木箱や樽などが転がっている。敵は船体が揺れる度に移動する障害物を陰に、こちらへと近付いてくるだろう。
(私の、やるべきことは……!)
リーシェは弓を肩に掛け、近くに立つ帆柱の縄梯子を掴んだ。
ある程度の高さまで登ると、振り落とされないよう縄梯子を片手に絡める。その状態で再び矢をつがえ、アルノルトの前にいる敵を射抜きながら叫んだ。
「二メートル先、十一時の方向、木箱裏にあと二名!」
「――――……」
アルノルトは即座に木箱を蹴り、勢いを付けて前に飛ばす。
隠れていたふたりの男が昏倒した瞬間、リーシェはその木箱の上に飛び降りると、その高さから見える樽の影に矢を射った。
舵のある船尾までは三十メートルほどだが、敵がまだ湧いてくる。ヨエルの方を注意しつつ、リーシェはふたりに向けて叫んだ。
「舵輪の回転は面舵! 次は左を外側にして傾きます!!」
アルノルトが数人の敵を斬り、彼の傍らを開けてくれる。
「リーシェ。来い」
「はい、アルノルト殿下!」
リーシェがその空間に飛び降りると、一拍遅れて船が揺れた。
アルノルトがリーシェの腰を掴む。先ほどまで乗っていた頑丈な木箱が、大きな音を立てて帆柱にぶつかった。
すぐさま離れ、互いに剣を取り、揺れによって重心を崩した敵を斬る。
リーシェはアルノルトの隣に立つと、剣から再び弓に持ち替えた。
(たとえこの霧と揺れの中でも、ラウルなら絶対に外さないのに。……何本か、矢を無駄にしたわ)
「リーシェ」
リーシェを背にして守ってくれながら、アルノルトが敵に向けて剣を構える。
「賊は止める。舵を取るあの男を、舵輪から剥がせるか」
(……矢は、残り一本……)
舵輪を保持する船乗りは、霧の向こうに霞んでいる。
けれどもリーシェは胸を張り、アルノルトに背中を預けて答えた。
「――お任せください!」
「……ああ」
柔らかな声を向けてくれたのは、リーシェの思い上がりなどではない。
(こうして私を守ろうとすることが、アルノルト殿下の弱味になるかもしれない)
先日、アルノルトを負傷させたことで、リーシェはその事実を痛感した。
(本来のアルノルト殿下は合理的で、必要な人だけを傍に置くお方。オリヴァーさまも、ラウルも、殿下が選んだ……)
リーシェはしっかりと深呼吸をし、矢をつがえる。
(コヨル国との技術同盟も、シグウェル国との造幣技術提携も、ミシェル先生をお許しになったことも同じ。――『死の商人』をお認めになったとしても、なんらおかしくはないわ)
リーシェがこの街で止めたとしても、アルノルトはいつか必ず、シャルガ国のような軍船を手に入れるだろう。
火薬とは違う。海軍技術は他国にあって、ガルクハインに欠けているものだ。
アルノルトは自国に足りないものを、分かっていて放置するような為政者ではない。
(だからこそ)
リーシェはゆっくりと目を眇め、鏃の向く先を固定する。
揺らぐ船の中、少しでも法則性を探りながら、自身の体幹を安定させることに努めた。
「おいおい嬢ちゃん、あいつを弓で狙ってやがるのか!? ははっ、当たる訳が……ぐあっ!」
リーシェだけでなくヨエルのことも、アルノルトが守ってくれると信じている。
たとえ傷のことが心配でも、すべてを彼に預けると決めた。
(これから先の未来で。誰の目から見ても、明白にしてみせるわ)
そしてリーシェは呼吸を止め、全神経を集中させる。
(――『皇太子アルノルト・ハイン殿下は、妃が共にあった方が、お強い』と)
そう決めて、リーシェは敵を正面から見据えた。
(そうすれば、他ならぬアルノルト殿下が認めて下さる。……合理的なこのお方に、世界を滅ぼすための武器商人よりも、私という妃を選んでいただく)
そんな花嫁にならなければ、この先の世界は変えられないのだ。
(おひとりでの、血塗られた道なんて進ませない)
傍らのアルノルトに祈りながら、リーシェは矢から指を離す。
(……このお方に、私との未来を望んでもらう……!)
放たれた矢は、風のない霧の中を真っ直ぐに飛んだ。
鏃が向かうのは、舵輪を握った男のすぐ横だ。そんな場所に突き進めば、男には絶対に当たらない。
だがそのとき、左に傾いていた船が揺り戻った。
「が……っ!?」
男の腕に矢が刺さり、悲鳴を上げて舵輪を離す。めちゃくちゃに回されていた舵が開放され、最後に一度だけ大きく揺れた。
「殿下、獲りました!」
「――総員」
アルノルトの淡々とした声が、それでもよく通る。
ようやくまともな戦地となった甲板へ、近衛騎士たちが一気に降りて来た。
(あと少し……!)




