259 透き通った海
「ねえ。次行くよ」
「っ、はい!」
すぐに切り替えたリーシェは、慌ててヨエルを追う。ヨエルがリーシェに声を掛けてから上を目指したのは、意外なことでもあった。
捕らえようとしてくる敵を倒しながら、操舵を奪うべく甲板を目指す。不安定な縄梯子を使って上に登りながら、この階には窓があることに気が付いた。
(もうすぐ甲板……! けれど)
丸窓の外が白く濁っている。ようやく甲板に立ったとき、リーシェは顔を顰めた。
「……霧が……!」
「…………」
ヨエルがリーシェに背を向けて立ち、辺りを見回す。
甲板の周辺は目視できるため、それほど濃くはない霧だ。しかし海の向こうになると、何があるかは分からない。
(この霧では、増援の船が私たちを見付けられないかもしれないわ)
そんな覚悟をし、舶刀の柄を握り込む。
船倉での異変をとうに察知している大勢の船乗りたちが、リーシェたちの前に立ちはだかった。
「追っ手を警戒していたが。まさか、船内に潜り込んでくるとはな」
(敵も、準備をしているとは思っていたけれど……)
リーシェはヨエルの背に呼び掛ける。
「ヨエルさま。私のことはお気になさらず」
「……」
こちらを一瞥したヨエルが、小さな声で返事をした。
「……分かってる」
それから駆け出したヨエルに向かい、敵が一斉に斬り掛かる。
(数が多い!)
リーシェはすかさず短剣に持ち替え、ヨエルを狙う船乗りの顎に鞘付きで投げる。人体の急所を強く打ち、男が昏倒したものの、これではひとり減らしただけだ。
(弓矢が必要だわ。それに、この揺れが収まらないと……)
先ほどから、船が異様に揺れている。
見れば、甲板の先の船尾にある舵を取った男たちが、わざと船体を揺らすように舵輪を回しているのだ。
(舵輪の方を目指す。そのためには)
経路を計算しようとしたそのとき、リーシェは背中に鳥肌が立つのを感じた。
「……え」
霧で隠れた海の中に、小さな島のような影が現れる。
それは、一隻の船だった。
(どうして……!?)
霧の中から浮かび上がったそれは、ぼろぼろに破れた帆を纏っている。
船首に彫り込まれた女神像は朽ちかけ、抉れた右目で微笑んでいた。その女神像と目が合った気がして、リーシェは絶句する。
(――まるで、幽霊船)
けれどもそうでは無いことは、甲板に蠢く人の姿で分かった。
新しい帆や木材の上に、わざと古びたものを被せ、荒くれ者に向けられる警戒心を削ごうとしている。打ち捨てられた船を装った、紛れもない海賊船だ。
リーシェはぐっと眉根を寄せ、すぐさま叫ぶ。
「ヨエルさま、敵の援軍です!!」
「!」
あちらの船から重石付きの縄が投げられる。甲板の手摺りに絡み、引き寄せられて、船体が再び大きく揺れた。
「ん……っ」
「ヨエルさま!」
ヨエルが足を置いた場所に、倒れた船乗りの体がある。バランスを崩したヨエルの上に、敵の剣が振り翳された。
(駄目……っ!)
脳裏によぎるのは、リーシェを庇ってくれたアルノルトの姿だ。
それから騎士での人生のこと。リーシェの盾になったヨエルは、無事だったリーシェを見て笑った。リーシェはヨエルの前に飛び込み、舶刀で船乗りの腕を斬り払う。
「ぐあっ!!」
傷を負った腕を押さえながら、船乗りが後ずさった。けれどもこれでは駄目なのだと、リーシェが誰よりも理解している。
「この女、よくも!!」
別の男がリーシェに手を伸ばし、髪を掴もうとした。
痛みを覚悟したその瞬間、目の前に剣尖が翻る。
「――――……」
(先輩……!?)
リーシェを押し退けたヨエルが、船乗りを斬る。
悲鳴が上がり、男は甲板に倒れ込んだ。けれども揺らぐ船の中、ヨエルは先ほど崩したバランスを、完全には立て直せていない。
直後に再び船体が揺らいで、傾いた甲板をヨエルが転がる。
「いっ、た……!」
今度の揺れは、現れた船から多くの船員たちが飛び降りてきた衝撃によるものだ。
(この状況……)
リーシェとヨエルが分断される。女であるリーシェよりも、ヨエルが先に囲まれたのは、負傷をしたと判断されたからだ。
「ヨエルさま、お怪我は!?」
「…………っ」
(頭を打っていらっしゃる……! 受け身は取っていたはずだけれど、すぐには……)
リーシェは握り締めた舶刀を頭上に構え、こちらに襲い掛かってきた男の攻撃を回避する。足を払い、揺れを利用して転がしたあと、舶刀の鞘で首裏に一撃を加えた。
(突破して、まずはヨエル先輩の元へ)
ヨエルは立ち上がれないながらも、手にした舶刀で応戦している。反射神経を利用して甲板を転がり、上半身を起こそうとしながら、大勢を相手取っていた。
その人垣に突っ込んだリーシェは、二本の舶刀を繰りながら、目の前の三人を気絶させる。
動きを妨害してくる船の揺れを、反対に利用しながら動き、次のふたりの頭同士を強くぶつけた。
「こいつら……! 陸の人間が、この揺れの中でここまで動きやがるとは……!!」
「ヨエルさま、こちらに手を……!」
「いい、から。……君は、さっさと、逃げなよ……」
甲板に這いつくばったヨエルは、肩で必死に息をしている。リーシェの手を掴もうとはせず、頭を打ったことによる眩暈と戦っているようだ。
「俺はもう、君を、助けない。……助けられない。だから」
「構いません! いまだけはどうか、おひとりで戦おうとなさらないで……!!」
「いらない」
上から刃を突き立てられそうになったヨエルが、そちらを見もせずに舶刀で薙ぐ。すぐさま甲板を転がって次を回避するも、その戦い方では限界があるはずだ。
「ヨエルさま!」
「行ってよ。じゃないと、ほら……」
ぼやけた双眸を海に向けて、ヨエルが目を眇めた。
「――次の敵が、来る」
「…………!」
霧の中から現れたのは、更なる船だ。
「俺が戦う。俺が、ひとりで」
「……いいえ」
「そうじゃなきゃ、俺は」
「いいえ、ヨエルさま!」
新たに現れたその船を、リーシェは見上げた。
船乗りたちも驚いて、そちらを見ている。この船よりも一回り大きな船、そのマストの先に掲げられたのは、朽ちた幽霊船の旗ではない。
「あれは――……」
ガルクハインの国旗として描かれる、鷲の旗だ。
リーシェがそれを見付けた瞬間、誰かが甲板から飛び降りてくる。
目の前に降り立ち、リーシェの傍にいる船乗りたちを一瞬で斬り捨てた人物は、青色の瞳をこちらに向けた。
「リーシェ」
薄暗い霧の中にあっても、彼の瞳は透き通った海のようだ。
リーシェにとっての愛おしい声で、いつものように尋ねてくれる。
「――怪我は無いな?」
「アルノルト、殿下……!!」




