255 妃として
肩を竦めたラウルを見上げ、リーシェはそっと尋ねる。
「ラウルは、アルノルト殿下やオリヴァーさまから、『サディアス』を名乗る男性の動きについて聞いている?」
「あー。逃走経路として考えられる可能性は全部答えたけど、殿下は本人が見付かることを期待してなさそうだったな。残留品とか、目撃者の証言を集めることに重点を置いてる」
ラウルもやはり、それに同意見のようだ。
「水の中に逃げ込んだ獲物を追うときは、水滴を利用するのが定石なんだが。それを目視で確認するのに、この街の白い石畳は厄介だ。色で濡れている状態が判別できない上に、逃亡は明かりの少ない夜と来ている」
「その上に夏の季節で、海風が乾燥を助けるものね……ずぶ濡れの人とすれ違っても、昼間と違って分からないわ」
「ま、水の中で息絶えた可能性もあるけどな。腕の骨が折れてるような状況であの高さの船から飛び降りて、着衣で泳ぎ切れるのも相当だ」
リーシェも狩人の人生において、体を隠す色のローブを着用したまま小川の浅瀬に身を伏せて、『獲物』を待ったことがある。
最も辛かったのは寒さだが、意外にも体力を奪ったのは、水の流れに引っ張られる着衣の重みだ。繊維とはそもそも重量を持ち、それが水を含むと尚更で、水中の抵抗も多く発生する。
「――この次は、逃さずに追うわ」
リーシェが小さな声で呟くと、ラウルは大きな溜め息をついた。
「そうやって、自分も最前線に立つ前提で物事を考えるの、本当に夫婦そっくりだな」
「え?」
ずいっとリーシェに近付けられた顔は、ラウルにしては分かりやすい呆れ顔だ。
「そんなことより、囮になっても無事に戻ってくる方法を考えることに集中するべきでは? 『リゼお嬢さま』」
「……ええ」
リーシェは頷き、左手の薬指につけた指輪に触れる。
「どれだけ心配を掛けてしまうかは、よく分かったから」
「……よろしい」
ラウルがやれやれと肩を竦めたとき、石畳に放置されていたヨエルが身じろいだ。
「んん……」
「ようやく起きたか眠り姫。おーい」
しゃがみこんだラウルが、ヨエルの頬をぺちぺちと軽く叩く。ヨエルは思いっきり嫌そうに顔を顰めたあと、もそりと起き上がった。
「おはようございます。ヨエルさま」
「…………」
瞬きをして目を擦ったヨエルが、すんすんと鼻を動かす。
「……やっぱり。さっきの、この香り」
「香り?」
首を傾げると、ヨエルはリーシェを見上げてさらりと言った。
「君、昨夜はアルノルト殿下と一緒に寝たの?」
「――――……」
ラウルがごほっと咳をする。リーシェは少し固まったあと、告げられた言葉の意味を理解して動揺した。
「え!? ど、どどど、どうして……!!」
アルノルトの寝室で過ごしたことは、なるべく隠して過ごしたつもりだ。
婚儀の前にそのような振る舞いは避けるべきことであり、アルノルトに迷惑が掛かる上、そもそもとても恥ずかしい。
もしやラウルも察しているのかと彼を見ると、ラウルはぱっとリーシェから視線を逸らした。
ヨエルは、リーシェが動転する様子を不思議そうに眺めながら、なんでもないことのように言う。
「君の、花みたいな匂い。さっきの会議でアルノルト殿下からも、同じ香りがしたし」
(……っ、お風呂の……!)
燃え盛る船から降りたあと、女性たちに休んでもらっている宿から離れたリーシェは、アルノルトの負傷を公にしないよう『普段通り』に過ごすよう心掛けた。
そもそも怪我人の寝室へ入るにあたり、あちこち汚れた状態で近付くのは悪化を招く恐れもあったため、婚儀の美容支度にと渡された桃蜜花の美容石鹸を使ったのだ。
「そ、れは、その」
アルノルトの傷が心配だったという理由だが、それをヨエルに説明することは出来ない。こうなると、ただただふたりで一緒に眠っただけだということになってしまう。
慌てていると、ラウルが含みのある言い方でリーシェを励ました。
「まあ、夫婦なんだし問題ないんじゃねーの?」
「ま、まだ夫婦じゃ……っ」
「夫婦」
ヨエルは「ふうん」と目を細めると、何処かむすっとした調子で言う。
「……まあ。いいけど……」
「ヨエルさま?」
「はいはい、それじゃあそろそろ準備しようぜ。船乗りたちへの謝礼と聞き込みも済んだなら、もうここに用はないだろ? お妃さまのご依頼を果たすためにも、まず色々と調達しなきゃならない材料があるもんで」
「そうね。けれどその前に、やっぱり片付けを手伝って……」
リーシェが木箱から降りたとき、これから帰るらしき船乗りたちが、機嫌良くリーシェに手を振った。
「リーシェさま! 美味い酒をありがとうございました。結婚式とその後のパレード、俺たち全員必ずお祝いしに行きますんで!」
「馬鹿、皇太子さま夫婦のは『婚姻の儀』って言うんだよ! ――本当にご結婚おめでとうございます、未来の妃殿下に乾杯!」
船乗りたちはそう言って、リーシェに向かい架空の杯を掲げる仕草をする。
リーシェはその気持ちが嬉しくて、微笑んだ。
「……皆さま、ありがとうございます!」
去ってゆく船乗りたちの背中を見送りながら、改めて背筋を伸ばした。
(アルノルト殿下の妃として。『皇太子妃』という職業に、全力で挑むわ)
それから間も無く、リーシェが攫われる『約束』の日が訪れたのだった。




