249 私に出来ること
【第6章5節】
その朝、朝食の支度が終わった厨房の片隅を借りたリーシェは、くつくつと煮える鍋の傍で調薬を行なっていた。
(まずは、眠り薬の効果を相殺する効能を強める配合から)
ジリス草の葉とクロレイン草の下処理は、昨日のうちに済ませてある。持ち歩き用に乾燥させていた葉を水に浸し、その上でしっかりと水気を取っておいたのだ。
それらを大きなすり鉢に入れて、ペースト状になるまで擦り潰す。続いてこちらも乾燥させていた赤いネヴィラの実を割ると、中の種を取り除いた。
(種は体を温める効果があるから、別の薬用に取っておいて……)
すり鉢の中にネヴィラの実を追加すると、さらによく擦り潰した。続いて、フィルンツの花蜜が煮えている鍋の蓋を開ける。
湯気が一気に上がると共に、厨房は特有の甘い香りに包まれた。
大きな木のスプーンで掻き混ぜながら、すり鉢の中にある薬草のペーストをゆっくりと加えてゆき、気泡が入り過ぎないよう慎重に混ぜる。
(綺麗な緑色! 完成する頃には琥珀のような色合いになっているなんて、この段階では想像が付かないわね。それにしても……)
鍋の中身を混ぜながら、リーシェはちらりと後ろを振り返る。
「あの……」
そして、リーシェの後ろをうろうろと観察して回っている青年に声を掛けた。
「ヨエルさまは、一体こちらで何をなさって……?」
「ん……」
かつての先輩騎士であるヨエルは、相変わらず眠そうな目でリーシェの鍋を覗き込み、瞬きをした。
先ほどから、リーシェがテーブルや鍋の前へと移動する度に、ヨエルは後ろをトコトコとついてくる。
さらにその後ろでは、ヨエルの監視をしなくてはならないラウルが、椅子に座って静観の構えを取っているのだった。
「君こそ一体、何をやってるの……? 朝ごはんじゃ、ない」
「朝ごはんは料理人の皆さまが腕を奮ってくださって、お客さま用の食堂に並んでいるはずですよ。私のこれは、お薬でして」
「薬」
「はい!」
リーシェは頷き、自信満々に胸を張った。
「私が囮になって捕まる際、眠り薬を飲まされても効かないようにするための解毒薬です!」
「……皇太子のお妃さまが、自分が囮になって捕まる用の薬作り……?」
「え?」
ヨエルからは非常に胡乱げな顔を向けられて、瞬きをする。
リーシェがラウルを見遣ると、どちらかといえばヨエルに賛成といった顔をしていた。
「麗しのお妃さま。あんたのアルノルト殿下は当たり前に受け入れてるけど、それが普通の反応」
「わ、私はまだ皇太子妃じゃないし、私の殿下ではないもの……」
一応は反論しておくものの、論点がそこではないのは承知している。だが、攫われた女性たちやヨエルが飲まされていた眠り薬は、この薬を事前に飲んでいれば抗えるはずなのだ。
(本来なら効き目を確認するために、事前に試しておきたいところだけれど)
眠り薬の入手や調薬は難しそうなので、仕方がない。
しっかりと実験していない状況はミシェルにやさしく叱られそうだが、薬師人生では、『己の経験と勘に胸を張れ』という師匠ハクレイの教えも授かっている。
(あとは使用される量ね。事前に皇城から持ち出しておいた分だけでなく、ここで作り足しておくとしても……)
リーシェがちらりと一瞥したのは、もうひとつの鍋だ。
こちらの鍋で煮ているのは、眠り薬の解毒薬ではない。まったく別の薬草で作っている、鎮痛の効果を含んだ傷薬だ。
作り置いて常備しているものと同じだが、この薬が最も強い効能を持つのは、調薬における最後の加熱から二十四時間以内なのだ。
リーシェが目を覚ましたとき、アルノルトはまだ眠っていた。そうっと腕の中から抜け出しても、覚醒の気配がなかったのである。
無防備な寝顔を見下ろしたときのことを思い出して、胸の奥がきゅうっと疼いた。
(安心して、穏やかに眠って下さっていたのかしら。……けれど、負傷の所為で消耗されている可能性も……)
だが、心配な気持ちをここで顔には出せない。
皇太子が刺されて負傷したことは、国にとっての一大事だ。ましてやアルノルトの強さは、軍事的な抑止力としても働いている。
アルノルトが負傷を表に出さないのは、恐らくそれが理由だろう。そのためリーシェも、いつもと変わらないように振る舞うよう心掛ける。
そんなリーシェの心情を知らないはずのヨエルは、眠そうにひとつあくびをした。
「俺が早起き、したのはね……」
ヨエルが鍋の中身を覗き込むも、興味がありそうなそぶりは全く見えない。
「今日は作戦会議、やるんでしょ……? もうすぐ剣で戦えると思ったら、なんかわくわくして目が覚めた……」
(騎士人生でも、遠征前の作戦会議のときは比較的早めに起きていらっしゃいましたものね……)
リーシェは必死で起こしていたつもりだったが、ひょっとするとそうした特別な日であれば、間に合う時間には起床してくれたのだろうか。
そんな考えが浮かんだものの、どう考えても寝癖に寝ぼけ眼で会議室に現れる姿しか想像できなかった。現にいまのヨエルは、赤い癖毛がいつも以上にふわふわだ。
(剣を握っていないときのヨエル先輩は、こんなに危なっかしいのに)
リーシェは不意に、思い出す。
『海戦に持ち込むことが出来たら、俺たちの国の勝ちだよ』
あれはまだ、六度目の人生でもアルノルトが父を殺していない、ガルクハインが戦争を起こす前のことだ。




