245 薬指
リーシェはいつかの礼拝堂で、アルノルトに『妻になる覚悟』を告げた。
そのとき、アルノルトは不意の口付けと共に、そんなものは不要だと答えたのだ。
「……覚悟ではなく、願いなら」
絡めた指に籠る力が、弱々しいことに自覚はあった。
「叱らずに、許して下さいますか……?」
「…………」
アルノルトの手が、繋いでいるリーシェの手をやさしく繋ぎ返す。
傷跡のある首筋に擦り寄せていた顔を、恐る恐る上げた。アルノルトは、海の色をした青い瞳でリーシェを見つめて目を眇める。
礼拝堂で口付けをしたあのときと、同じまなざしだ。
(『分かった』と、やさしく頷いて欲しいのに)
心の中で再び願う。
けれども彼がくれたものは、それとは違った形をしていた。アルノルトは静かに目を閉じると、指同士を絡めたリーシェの左手を引き寄せて繋ぎ直す。
「――――!」
そうして薬指の指輪の傍に、柔らかな口付けが落とされた。
「……殿下……」
リーシェとアルノルトのふたりにとって、それは求婚の際に交わすものである。
この世界の何処にもない決まりだった。
それでもアルノルトからは指輪を贈られた際に、リーシェからは夫になってほしいと懇願した夕暮れの海辺で、同じように薬指へのキスをしたのだ。
アルノルトが、そのことを忘れているはずもない。
けれどもリーシェの瞳は、どうしても震えてしまう。このキスが、リーシェの願いを拒むものではないからこそだった。
(言葉での約束は、下さらない――……)
それなのにアルノルトは、リーシェのことをもう一度抱き締める。
「リーシェ」
「…………っ」
その腕に込められた力に、願いのようなものを感じた。けれどもアルノルトは、それを決して口にはしない。
ただ、心臓の鼓動が聞こえるだけだ。
(お父君のあり方を厭っていらっしゃるのに。それでも私に求婚し、傍に置いて、拒まないでいて下さる)
そしてアルノルトはその事実すら、自身の罪だと捉えているのだろう。
(……本当に、とてもやさしい人……)
その温かさにどうしても涙が滲んで、とうとう堪えられなくなった。
リーシェにはただただ、アルノルトのやさしさだけが、とても寂しかったのだ。
(アルノルト殿下にもう二度と、痛みを覚えてほしくないのに)
リーシェのために傷を負わせてしまった。
アルノルトはリーシェを見つめながら、頬に触れた手の親指で、濡れた睫毛を柔らかになぞるのだ。
「……っ」
「リーシェ」
やさしく名前を呼ばれ、ふるふると首を横に振る。
それからしばらくの間、リーシェはいつかアルノルトの前で泣きじゃくった夜のように、溶けそうなほど甘やかされた。
けれど何度も撫でられても、やさしく名前を呼ばれても、零れる涙が止まりそうにない。
そうしてしばらくの間、こんなにもやさしいアルノルトを、困らせ続けてしまったのだった。
***
「……落ち着いたか?」
「……はい……」
アルノルトのための治療箱を片付けたリーシェは、ぐずっと鼻を鳴らしながら、彼の枕に頭を沈めていた。
包帯を巻き直したアルノルトは服を着て、リーシェと並べた枕を使用している。
夏用の軽い上掛けは、ふたりで入っていると温かすぎるような気もした。それなのに、アルノルトの体温が心地良い所為で、リーシェはここを動けない。
「本当に、一緒に寝かせていただいて良かったのですか……?」
おずおずと尋ねれば、アルノルトからは平然とした声音が返ってくる。
「お前が自分の部屋に戻り、大人しく休息を取るならば構わないが」
「う……っ」
「夜通し俺から離れないつもりなら、傍で起きているのではなく、せめて眠れ」
いつかの夜、リーシェが毒矢を受けたときと、完全に立場が逆転している。
あのときはアルノルトの方が、寝ずの番でリーシェを介抱しようとしていた。だからこそリーシェは、アルノルトも眠らなくては駄目だと駄々を捏ねて、同じ寝台で寝てもらったのだ。
(私のしたことを、殿下にそのまま返されてしまうなんて……)
口元まで上掛けに潜ったリーシェは、ちらりとアルノルトの様子を窺う。
沢山の我が儘を言ってしまった気恥ずかしさと、先ほどまでのかなしさが混ざり合い、複雑な感情だ。
(言葉で説得するのではなく、確かな形でお見せする必要があるのだと、そのことは分かっていたはずだわ。――傷付かないで欲しいと泣いて願うのではなく、証明するの)
自分に言い聞かせ、上掛けを握り締める。
(やさしい殿下が、傷を負ってでも成そうとしていることが、戦争の果てにあるものなのであれば。――私はどうしてもそれをお止めして、他の可能性を捧げたい)
リーシェは改めて覚悟をしながら、思考を巡らせる。
(やっぱり皇都に戻ったら、婚儀の前にあのお方に……)
そんなことを考えながらも、リーシェは横向きに寝返りを打ち、アルノルトの方へと向いた。
「殿下……」
仰向けのアルノルトが、まなざしだけでリーシェを見遣る。
「本当に、傷はもう安定していますか?」
不安が表情に出てしまうリーシェに向けて、アルノルトは柔らかな声で教えてくれる。
「問題ない」
「……私を心配させまいと、そう仰って下さっているのでは」
「包帯を巻き直したのはお前だ。傷口をよく見ただろう」
「でも、先ほどのお熱は……?」
「…………」
するとアルノルトはリーシェの顔の傍に、その左手をぽんっと置いた。
「触れてみろ」
「!」
どきりと心臓が跳ねるものの、それを表には出さないように努める。
シーツの上を辿るように、リーシェはゆっくりと手を伸ばした。
するとアルノルトの手に柔らかく触れた途端、彼の手に捕まってしまう。
「びゃ……っ」
「……」
目を閉じたアルノルトがリーシェの手を、彼自身の頬へと押し当てる。
そうして、すりっと軽く擦り寄せた。
「〜〜〜〜っ」
アルノルトが甘えているようにも見えながら、リーシェが甘やかされているようでもある仕草だ。
それからゆっくりと目を開く。世界で一番美しい青の上に、長い睫毛の影が落ちた。
「――お前の方が、温かい」
「そ、れは……っ」




