27 義弟(予定)が接触してきました
「せ、せっかく耕した土が……」
「リーシェさま。問題になさるのはそこではないかと……」
騎士に指摘されつつ、リーシェは少年を見下ろした。
かの人物の特徴を聞いたことはない。しかしこの外見だけで、一体何者なのかは想像がつく。
「もしやこの方は、第二皇子の」
「はい。テオドール殿下であらせられます」
(やっぱり……)
頭を抱えたくなった。まさか、地面に直接寝転がって寝息を立てているこの少年が、アルノルトの弟だとは。
(近付くなと言われた翌日に、接触することになるなんて)
リーシェのいままでの人生において、テオドールの存在を認識したことはない。
他国で暮らしていたリーシェの耳に、ガルクハイン皇室の情報はほとんど届かなかったからだ。そのためガルクハイン皇室のことは、この国に来てから少しずつ情報を得る形になっていた。
テオドールはアルノルトの四つ下で、いまのリーシェと同い年の十五歳らしい。
現皇帝には六人の子供がいるそうだが、皇位継承権を持つ男子はアルノルトとこのテオドールだけで、他は全員姫君だと聞いている。
「んん……」
テオドールの身じろぎに、騎士たちが再び慌て始める。
「リーシェさま、ここはひとまずお下がりください」
「『リーシェ』……?」
「ああっ」
騎士の声に反応したテオドールの肩が動き、その瞼がゆっくりと開かれる。起こしてしまった騎士が自分の口を手で塞ぎ、もうひとりの騎士に背中を殴られていた。しかし、眠っていた少年は目覚めてしまったようだ。
アルノルトと同じ青色の目が、空を見て眩しそうにした。
テオドールは、眼前に手を翳して影を作ると、そのままリーシェを見上げる。
「……君が、兄上の……」
どうやら、向こうもリーシェの存在を見止めたようだ。
「お初にお目にかかります、テオドール殿下。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
内心では最大限に警戒しつつ、リーシェはにこりと微笑んだ。
「リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します。この度ご縁があって、皇室の末席に加えていただくこととなりました。至らぬ身ではありますが、精一杯皇室に尽くしてまいります」
「……」
実際は、この城でだらだらするために頑張っているのだが。
テオドールはそんなリーシェを見つめたまま、眠そうな顔で瞬きをする。
彼がこの後どんな行動に出るのか、正直なところ予想がつかなかった。
とはいえ、リーシェの扱いはあくまで『人質』だ。大国ガルクハインにとって、リーシェは弱小国の公爵令嬢にしか過ぎない。
(歓迎されないのは、間違いないでしょうけど)
出方を窺っていると、テオドールは上半身を起こしたあと、にっこりと笑って言った。
「――初めまして、麗しき義姉上!」
(……え)
女の子のように綺麗な顔が、満面の笑みに溢れる。
「こんなところでお会い出来るなんて僥倖だな。僕が何度も手紙を出したのに、兄上からはお返事もないんだよ! だけどこんなに綺麗な奥さんなら、独り占めしたくなるのも分かるかも」
「も……勿体ないお言葉です」
「あはは。そんなに堅くならず、もっと楽にしてくれていいのに」
テオドールは人懐っこい表情で、じっとリーシェの顔を見つめる。
(兄弟なのに、あまり似ていないわ)
髪と瞳の色は同じでも、目やくちびるなどの形が違う。どちらも類いまれな美形であることに間違いはないが、アルノルトの弟がいると知らなければ、彼がそうだとは思い至らなかっただろう。
(そもそも、表情が全然違うというか……)
「っとと、いつまでもこんなところで寝ていたら、握手も出来ないか」
テオドールは立ち上がると、体についている土を大雑把に払った。身長はリーシェより少し高く、アルノルトよりはずっと低い。
「テオドール・オーギュスト・ハイン。皇位継承権第二位で、アルノルト・ハインの弟だ」
「よろしくお願いいたします、テオドール殿下」
人懐っこい表情で握手を求められ、リーシェも笑ってそれに応じた。
視界の横では、騎士たちがひどく緊張している。恐らくは彼らも、『リーシェとテオドールを近づけるな』という類いの命令を受けているのだろう。しかし、当のテオドールの前でおおっぴらに制止することは出来ないはずだ。
「ところで、義姉上はどうしてここに? 僕は城内の散歩中、眠くなったからここで寝てたんだけど」
「実は、この畑は私が作っているものでして」
「義姉上が!? うわあ、それはすごいな。こんなにふかふかの土は滅多にないよ! 太陽の陽もちょうどよく当たるし、小鳥のさえずりも聞こえるし。ここで育てられる植物は幸せだな」
「お褒めに与り光栄です。ですがテオドール殿下、もうしばらくしたらここに種を植えますので」
「そっかあ、じゃあ期間限定のベッドだな。でも、ひとつ気になることがあるんだ」
テオドールは畑のそばに屈み込むと、そこを指さす。
「義姉上。これを見てくれる?」
「どうかなさいましたか?」
「ほら、ここ。よく見るとおかしいでしょ?」
示されているのは、なんの変哲もない土の部分だ。確かめるために、リーシェも屈み込む。
テオドールが囁いたのは、そのときだった。
「君を助けたい。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー」
「……」
真摯な視線が、間近からリーシェを射抜いた。
「可哀想に。こんなところまで連れてこられて、君の本質は花嫁でなく人質だ。僕の知る限り、この国の皇妃に幸せな人生を送れた人間なんていない」
騎士に背を向けているテオドールの表情に、先ほどまでの柔和さはない。
「近いうち、ふたりだけで話しをしよう。兄上には内緒で、監視の目もないところで」
「テオドール殿下」
「――兄上から逃れる方法を、教えてあげる」
囁いたテオドールの目には、不思議な熱が籠もっていた。
この国の皇室に関して、リーシェの持つ情報は少ない。しかし、アルノルトを取り巻くそういった事情が、数年後の戦争に繋がる可能性はある。
あるいはこのテオドールが、その鍵を握るひとつかもしれない。だとすれば、彼の提案通り、内密な話をすることはとても有意義なはずだ。
(だけど)
リーシェはにこりと微笑んだ。
「危険なことはしないようにと、アルノルト殿下に言い含められておりますので」
「……なんだって?」
「実はつい昨晩、殿下に叱られてしまったばかりなのです。不用意に他の殿方とふたりきりになって、噂の種をまくわけには参りませんわ」
ぽかんとした顔のテオドールは、やがてその整った眉を歪めた。
「……君は兄上の残酷さを知らないんだ。剣を握ったときの振る舞いや、戦場でどんな目をするかを」
「いいえ。十分に存じております」
「それだけじゃない。いつか君を殺す可能性だって――」
「存じております」
それはもう、身にしみきって夢にまで見るほどに。
そこまでは口にしなかったものの、リーシェは微笑んだまま立ち上がった。
「なんの問題もありませんわ、テオドール殿下。この畑は、このままにしておいていただければ」
少し離れた場所にいる騎士に向けて、あくまで畑の話をしていたのだという体を装う。屈み込んだままのテオドールは、美しい顔から表情を消していた。
(……その顔は、少しだけお兄さんに似ているわね)
だが、アルノルトの方が何枚も上手だ。先ほどのような呼び出しも、彼であれば絶対に、罠だと気付かせなかっただろう。
(私に対する殺気はなかったけれど、アルノルト・ハインの名を出す度に、それに近いものが滲んでいた。……『皇位継承権二位』だなんて、兄皇子の婚約者に対する自己紹介の言葉ではないわ)
アルノルトの残酷性を強調しようとしたのもそうだ。彼と結婚することになるリーシェの恐怖心を、上手く煽ろうとしたのだろう。
(アルノルト・ハインが戦場でどんな顔をするか、私も知っている。でも、弟がそんな言い方をしなくても……)
そこまで考えたところで、リーシェはふと気が付いた。
(私、どうして怒っているのかしら)
アルノルトが実弟にどう称されようと、関係がないことのはずなのに。
不思議に思いつつ、テオドールに一礼する。
「土が平らになってしまったので、鍬を持って来ませんと。今日のところはこれで失礼いたしますね、テオドール殿下」
「……」
彼から返事がないのを確かめて、リーシェは歩き出す。騎士たちも皇子に最敬礼をしたあと、リーシェを護るように供をしてくれた。
(さあ。これで、動きがあるといいのだけれど)