243 母君
(アルノルト殿下が、小さくて幼い子供の頃に)
従者のオリヴァーから語られたのは、彼が初めて出会ったアルノルトのことだ。ほんの九歳のアルノルトの首には、血の滲んだ包帯が巻かれていたという。
(……こんなにたくさんの傷が残るほど、幾度も突き立てられた跡……)
そのことを想像すると、リーシェの瞳は潤んで揺らいだ。
アルノルトの口から、母について語られたことへの緊張はある。それから、どうしてそんな状況が生じたのかと確かめたい気持ちもだ。
けれどもリーシェが真っ先に口にしたのは、それを尋ねる言葉ではなかった。
「……痛かった、ですよね」
「……リーシェ?」
リーシェを庇って刺された際も、アルノルトはまったく表情を変えていない。
けれど、何も感じないはずはないのだ。
(……実のお母さまによって)
その傷を指でなぞりながら、リーシェはぎゅっとくちびるを結んだ。
(殿下は、どんな想いの中で……)
「…………」
アルノルトは小さく息を吐くと、リーシェの頭を柔らかく撫でた。
「痛みのことは、今やほとんど覚えていない」
「……殿下」
リーシェが口に出来なかった問い掛けを、アルノルトは掬ってくれたのだろう。
「――鮮明なのは、その直後に母后を殺した記憶の方だ」
「……っ」
思わず息を呑んだリーシェのことを、大きな手がやさしく撫で続ける。
「お母さまは、どんなお方だったのですか……?」
皇城の一画には、アルノルトの母のためらしき東屋が残されていた。その場所が大切に使われた痕跡など見えない、静かな場所だ。
「それを判ずる材料は、持ち合わせていないな」
アルノルトの青い瞳が、ほんの僅かに茫洋とする。それはまるで、遠くの景色を思い出すような色合いだ。
「俺の知る母后は、虚ろな人形のようだった」
彼が比喩のような物言いをすることは、とても珍しい。
リーシェが静かにその瞳を見詰めていると、筋張って美しい形の指が、リーシェの横髪を梳いてくれる。
「俺を見ると取り乱すので、死の直前まで会話をしたことはない。声を聞いた記憶は乏しく、視線が合ったのも数える程度だ」
「……殿下」
その声音に、アルノルトの感情は窺えない。
アルノルトはなんでもないことのように淡々と、リーシェの疑問を埋めてゆく。
「あの日、偶然に鉢合わせた母后の動揺を引き起こした。俺が全身血にまみれていて、それが契機になったのだろう」
「血……?」
「生まれたばかりの妹を殺し、そのままの姿で『塔』に戻った為だ」
「…………!」
現皇帝の重ねた所業を、リーシェは以前教わっていた。
各国の姫君を戦利品として嫁がせたアルノルトの父は、自身の血を色濃く受け継いだ子供だけを生かし、それ以外の赤子を殺したのだという。
アルノルトは幼い頃から『世継ぎ』として、その殺戮に従わなくてはならなかったのだ。
「母后は一見すれば冷静に、穏やかな様子で歩み寄って来た。俺が帯びた剣に、一度視線を向けた以外は」
リーシェの脳裏に、想像した光景が浮かぶ。
女神の血を引く巫女姫だったアルノルトの母は、リーシェがかつて侍女として仕えた少女であるミリアと同じ、菫のような淡い紫色の髪だったと聞いた。
アルノルトと似た面差しを持つのなら、目を見張るほどの美貌を持った女性だったのだろう。
普段は『人形のよう』と称されるその母君が、血まみれになった幼いアルノルトに、自らの意思で歩み寄ろうとしたのだ。
そのとき小さなアルノルトは、血に濡れた姿のままで、どんな表情をしたのだろうか。
「俺が、判断を誤った結果だ」
アルノルトが、静かに目を伏せる。
「――母后は微笑み、俺が生まれたことを呪う言葉を口にして、俺に刃を突き立てた」
「……!」
リーシェが大きく瞳を揺らしたのを見て、アルノルトは右手でリーシェの頬をくるんだ。
「お前がそんな顔をする必要は、何処にもない」
「……ですが……」
「覚えていないと言っただろう。ただ、それだけのことだ」
「……っ」
リーシェはくちびるを結び、小さく首を横に振る。
聞き分けのないリーシェを柔らかなまなざしで眺め、アルノルトは告げた。
「母后が最後に貫いたのは、自らの喉だった」
「……!」
アルノルトの双眸は、波の消えた海のように凪いでいる。
「母后の血を浴びる中で、もう一度呪いの言葉が告げられた記憶がある」
「……殿下」
「母后はすぐに死ぬことは出来ず、苦しんだ。助かる見込みのない傷でありながら、女神の血による治癒力が、却って苦痛を長引かせたのだろう」
「…………っ」
九歳の幼いアルノルトが、そのとき何を選択したのか、リーシェははっきりと理解した。
「……殿下は、お母さまを苦しみから解放するために……」
それこそが、母を殺したと語った理由なのだ。
それと同時にアルノルトが、生まれたばかりの弟妹を殺めたとされる仔細にも気が付く。
アルノルトはただ従わされたのではなく、恐らくは選ばされたのだ。
母と同じように、赤子たちを絶命させた方が救いがあるような状況に陥らせ、アルノルトに剣を握らせたのではないだろうか。
(私との結婚を望んで下さったアルノルト殿下が、私を『無理やりに嫁がせた』と、ご自身のことを悪し様に仰るのも……)
リーシェは少し俯いて、アルノルトの首に縋るように腕を回す。
ぎゅうっと抱き付き、アルノルトの首筋に再び額を埋めると、彼も柔らかく抱き締め返してくれた。
「……泣かないでくれ」
小さな声で囁かれる。
このような懇願の物言いも、アルノルトには珍しいものだ。
リーシェはそれを分かっていながらも、駄々を捏ねてアルノルトに額を擦り寄せた。するとアルノルトは、囁くように名前を呼ぶ。
「リーシェ」
「…………っ」
まるで、リーシェの髪へと口付けを落とすかのように。




