242 約束
アルノルトは、リーシェの頭にその手を添える。
「もう二度と、か」
ただ触れるだけというよりも、抱き寄せるようなやり方だ。
僅かに苦笑するような吐息を交え、口元をリーシェの髪にうずめる。
「――すまなかった」
「……っ」
我が儘をやさしく甘やかし、リーシェにそうやって詫びながらも、決して頷いてはくれなかった。
(……アルノルト殿下の瞳に映る、ご自身の未来は……)
果たせない誓いを立てる人ではないと、リーシェが誰よりも知っている。
多くの隠し事を持とうとも、アルノルトはリーシェとの約束を破らない。
その誠実さを信じているからこそ、かなしかった。
(このお方の望んでいることは、遥か遠い戦争の果てにあって)
ゆっくりと目を閉じると、滲んだ涙が溢れそうになる。
リーシェはそれを堪え、アルノルトに額を擦り寄せた。
(いまの私には、決して届かない。……七度の人生を重ねても、まだ遠い……)
それでも、ひとつの覚悟をする。
(私のこれまで得てきたすべてを、アルノルト殿下の未来のために)
「…………」
リーシェが心の中で結んだ決意を、アルノルトが知るはずもない。
それなのにアルノルトは、リーシェが縋るのを厭うことなく、何度も頭を撫でてくれる。
「……もう少しだけ」
リーシェはアルノルトの首筋に額を押し付け、懇願する。
「殿下のお傍にいても、いいですか」
怪我をしているときに他人が傍に居るのは、アルノルトの望むところではないかもしれない。
救出した女性をリーシェが手当てしている間、アルノルトの治療は彼自身が行ったのも、恐らくはそれが理由だろう。
けれどもアルノルトは、リーシェの左手に自身の右手を絡めながら、許してくれる。
「ああ」
「……」
ほっとして、更に彼へと甘えたくなった。
「……ずっとでも?」
「構わない」
強張っていた体から、ほんの少しだけ力が抜ける。小さな子供がするように、ぐりぐりとアルノルトに頭を押し付けた。
アルノルトは少しだけ笑ったのかもしれない。その表情を見ることは出来なかったが、代わりに指同士を繋いであやされる。
リーシェは、自身の感情がぐずぐずと溶けて双眸に滲むのを感じながら、涙声になるのを誤魔化して呟く。
「こうしてぎゅうっとしていたら、いつもより少し、殿下のお身体が熱いです」
「……そうか」
アルノルトの体温がリーシェより低いことを、何度も触れて知っている。
その肌が僅かな熱を帯びていることは、負傷と無関係ではないだろう。
「お熱が、あるのかも……」
「…………」
そう告げると、リーシェを膝に乗せていたアルノルトが、リーシェを抱き込んだまま後ろに倒れ込む。
「あ……!」
ぽすんという柔らかな音と共に、アルノルトは仰向けになった。その上にうつ伏せに乗る体勢になったリーシェは、彼の状況を思って慌てる。
「いけません、お怪我に障ります……!」
「――もう、血は完全に止まっている」
「!」
そう言われて息を呑み、体を起こして側腹部の傷口を見遣る。
(……本当に、女神の……?)
「…………」
アルノルトがリーシェの後ろ頭に手を添えて、視線を傷口から外させられた。
リーシェは再び抱き寄せられ、アルノルトの上にうつ伏せになって、頭を撫でられる。
上半身を晒したアルノルトの体に触れていることは、冷静になればとても恥ずかしいはずだ。
けれどもいまのリーシェには、温かさと共に安心を感じられた。
(心臓の、音)
ゆっくりと目を眇めながら、リーシェは安堵を口にする。
「……殿下の引いていらっしゃるその血が、命を守って下さったのですね……」
「――――……」
リーシェの言葉に、アルノルトは少しだけ驚いたようだった。
「アルノルト、殿下?」
「……お前の考えは、いつも思わぬ見方を持っている」
アルノルトの指が、リーシェの薬指にある指輪をなぞる。
「女神の血が及ぼす影響については、伝承と事実が入り混じったものばかりだ。クルシェード語で書かれた聖典を読み漁ったこともあったが、断定は出来ない」
「……」
以前にアルノルトが話してくれたことだ。幼い頃のアルノルトは、女神の言語であるとされるクルシェード語を、独学で身につけたのだという。
どれほど難解な言語であっても、アルノルトにとっては母に纏わるものだ。
大人ですら投げ出すような本を、小さなアルノルトはひとりぼっちで、ずっと静かに読んでいたのだろう。
「――あの男」
アルノルトが呟いた言葉に、リーシェは船上で対峙したフード姿の人物を思い浮かべる。
(あの人物は、殿下のお母君のことを知っていた……)
リーシェは少しだけ身を起こし、仰向けにこちらを見上げるアルノルトの首筋に指を伸ばす。
先ほど秘密で口付けた傷に触れ、少し掠れた声で尋ねた。
「この傷は、お母君に……?」
出会ったばかりのころ、初めての夜会でこの傷を見て、仔細を尋ねたことがある。
あのときのアルノルトは、何も答えてくれなかった。
けれどもいま、リーシェの目の前にいる彼は、泣きたくなるほどに穏やかな声音で紡ぐ。
「――そうだ」
「…………っ」
以前から推測していた想像を肯定されたことが、かなしかった。




