241 おねがい
アルノルトはその腕の中に、リーシェをぐっと強く抱き込んだ。
膝に横向きで座らされ、上半身で向かい合うような体勢だ。傷のことが頭から離れないリーシェは、慌ててそこから逃げ出そうとした。
「い、いけません殿下! お怪我に障ります……!」
「そう思うのなら、大人しくしていろ」
「う……」
そう言われてしまっては、無理にここから動けるはずもない。
せめて傷口に負担が掛からないようにしつつ、リーシェは少しだけ力を抜く。
するとアルノルトは、まるでリーシェをあやすかのように、大きな手でとんとんと背中を撫でてくれた。
(この、触れ方……)
出会って一ヶ月ほどの頃、リーシェがテオドールに誘拐された翌日に、初めてアルノルトと同じ寝台へ入ったときのことを思い出す。
あのときのリーシェは、アルノルトを眠らせるために傍にいた。
彼に触れ、心臓の鼓動と同じ間隔でとん、とん……と撫でながら、これは心を落ち着かせる触れ方だと告げたのだ。
いまのアルノルトは、それと同じ触れ方をしてくれている。
自分の命が危うかった状況で、痛みもまだある中にもかかわらず、何よりもリーシェのことを優先しているのだ。
そのことが、泣きたくなるほどによく分かった。
「お前に、あれほど怯えた顔をさせるつもりはなかった」
「……っ」
燃え盛る船上で、恐れをアルノルトに見せてしまったのだろう。
何か言いたいのに、形にすると泣きじゃくってしまいそうだ。それを必死に堪えていると、アルノルトはやさしい声でこう尋ねる。
「……俺のことを、叱ってみるか?」
「……!」
リーシェが慌ててふるふると頭を振ると、アルノルトは吐息だけで小さく笑った。それがリーシェの耳殻に触れて、ほんの少しだけくすぐったさを感じる。
「お前の身が守られたという事実に対して、お前が俺に謝罪することなどは、ひとつもない」
その言葉に、リーシェはやっぱり泣きたくなってしまう。
「……アルノルト殿下がお怪我をされたという、大きな事実が、抜けています……」
それだけ必死に伝えながら、ぐちゃぐちゃになっている感情を懸命に抑えようとした。
けれども上手く出来なくて、上半身を晒しているアルノルトの背中に腕を回す。直接触れる肌は滑らかで、温かく、血が通っていることがよく分かった。
「……私は」
決して顔が見られないよう、アルノルトの左の首筋に額を押し当てる。
「アルノルト殿下が傍に居てくださる限り、なんでも出来る気がするのです」
「…………」
リーシェが顔を擦り寄せたのは、アルノルトの古い傷跡が残る場所だ。甘えたふりをしてみても、声が震えているのは気付かれているだろう。
「人は誰かと手を取り合った分だけ、強い力を発揮すると信じていました。――けれどヨエル先輩が、アルノルト殿下は、ひとりきりで戦った方が強いお人だと」
ヨエルに告げられたその言葉を、はっきりと思い出すことが出来る。
『本当は君なんて、アルノルト殿下には不要なはずなんだよね』
『だっていらないでしょ? あのひと俺より強いもの。それなのにわざわざ君の『作戦ごっこ』に協力して、君を守って、君のために手間をかけてあげているなんて』
ひとりで戦った方が強い人を、リーシェは確かに知っている。
(ヨエル先輩……)
天才剣士であるヨエルは、リーシェを庇って死んでしまった。
(ヨエル先輩がどれほど強かったのか、私が誰よりも知っている)
あの戦場において、確かにアルノルトの方が格上だった。
けれどもリーシェを庇う必要がなければ、ヨエルひとりで戦っていたのであれば、王子たちが逃げ切るまでのあいだ生き延びることは出来ただろう。
そうすればヨエルが城に残る理由はなくなり、殺されずに済んでいたかもしれない。
「……アルノルト、殿下」
アルノルトの膝の上で抱き締められたまま、リーシェは問い掛けを押し殺した。
(私が死んだあとの、それぞれの未来で。――あなたはどのような人生を、辿りましたか)
リーシェに知ることが出来たのは、自分が死ぬまでのことだけに過ぎない。
(やさしいあなたが戦争をしてまで得たかったものは、手に入りましたか?)
皇帝アルノルト・ハインは戦争を起こし、各国を侵略していった。
それが完遂されたのか、凶行は途中で止められたのか、それすらリーシェには分からないのだ。これほど人生を繰り返していても、なにひとつとして。
(あなたは)
リーシェは震える指を伸ばし、アルノルトの側腹部で熱を持つ、傷口の傍にそうっと触れる。
(……死なないで、生きて、いられましたか……)
「…………」
アルノルトが死ぬことを、これまでに想像したことはなかった。
皇帝アルノルト・ハインの力は圧倒的で、誰も敵うことがないのだと、ある意味で信じていたからだ。
けれどもいまのリーシェの中には、その恐怖がはっきりと刻まれている。
「私がお傍にいると、アルノルト殿下の強さに翳りが出てしまいます」
リーシェは再びアルノルトの背に腕を回し、ぎゅうっと縋り付く。
「……リーシェ」
「そうではないと、仰ってくださるのなら」
ほとんど泣きそうな声でねだるのが、ずるいことだと理解していた。
このやさしい婚約者に向けて、リーシェはこんな我が儘を紡ぐ。ぐずった幼子のようなものだと自覚しつつも、駄々を捏ねた。
「お願いですから。……どうか、もう二度と」
首筋の傷跡にくちびるを寄せ、小さな声で懇願した。
「……絶対に、怪我なんてしないで……」
「――――……」




