239 するする解く
【6章4節】
いまから数時間前、『運河に浮かぶ船が火災に遭った』という情報が入ったとき、ラウルは痛烈なまでの違和感を覚えた。
(船火事だって? それも、あのふたりが運河まで出向いているタイミングで都合良く……)
この国の未来の皇太子夫妻は、夕食後にふたりで外出をした。
周辺を警備するための騎士が数名呼ばれるも、ラウルは騎士ヨエルの監視もあり、この屋敷に残ったのである。
従者のオリヴァーや近衛騎士たちが慌ただしく交わす情報によれば、火事が起きたというその時刻、アルノルト・ハインと婚約者のリーシェは炎の傍にいたらしい。
(まさか、殿下の警戒していた『例の事態』でも発生したか?)
ラウルは階段の手摺りに頬杖をついて考えたあと、自らの思考を否定した。
(……それはない。だとしたら、こんな程度の騒ぎで済むはずねーもんな)
エントランスで指示を出すオリヴァーを見下ろす限り、燃えているのは船一隻で間違いなさそうだ。そして何よりその場所には、アルノルト・ハインとあの少女がいる。
(俺の優先すべきはあっちじゃない。あの化け物夫婦が直々に現場の指揮を取ってるって話だ、これで事態が沈静しない方が有り得ないだろ)
何故か胸騒ぎがする中で、ラウルは自身にそう言い聞かせた。
そして日付が変わった頃、屋敷に戻ってきた少女の顔色を見て、その考えを改める。
「ラウル……!」
「…………」
先ほど湯浴みを済ませたはずのリーシェの頬は、冬の湖に入ったかのように白かった。
階段を登ってきたリーシェと、降りるラウルがすれ違った形だ。
偶然を装ってリーシェを出迎えようとしていたラウルは、寝室のある階へ向かうリーシェが焦っており、それでいて力が入っていないことをすぐに見抜いた。
(何か異変が起きているのを周りに気取られないように、必死でいつも通り振る舞ってんな)
本当なら身を清める心境ですらなかったのだと、濡れたままの珊瑚色の髪が物語っている。
リーシェが戻る少し前、アルノルト・ハインが上階の寝室に戻った気配を、ラウルはもちろん察していた。
(殿下の命令に背いてでも、俺も行くべきだったか? ……後悔しても、今更どうしようもない)
舌打ちしたい気持ちになりながらも、ラウルはリーシェに向かって告げる。
「誰も上の階に近付くなって、俺から使用人や騎士たちに伝令しといてやるよ」
「!」
「皇太子妃さまがお疲れだからとかって、適当な理由でオリヴァーさんと口裏合わせりゃいいだろ?」
先ほどから、屋敷内にオリヴァーの姿も見えない。
リーシェが人払いをすると事態が大きくなるが、騎士としてのラウルが『殿下のご婚約者さまの不調で』と伝えれば、リーシェが隠したがっていそうなことは目立たずに済むはずだ。
「ありがとう、ラウル……!」
「どーぞごゆっくり。良い夢を」
適当な挨拶をしながら手を振るも、上階に駆けてゆくリーシェが足を踏み外さないか、実は気が気ではない心境だった。
いつも気丈なはずのリーシェが、それほど焦燥に駆られて見えたのだ。
(……さて)
眠ったヨエルが起きてくる前に、一通り済ませておかなくてはならない。
ラウルは足音を立てず、階段を下ってゆくのだった。
***
アルノルトが負傷していることが知られては、各所に大きな混乱と不都合を生む。
当人がそう判断したことを察したリーシェは、ここまで必死に動揺を押し殺してきた。
救出した女性の手当てをして落ち着かせ、燃え盛る船からの避難誘導を手伝い、アルノルトと別行動で動き回ったのだ。
ようやく滞在中の屋敷に戻れてからも、煤だらけの体では怪しまれると、もどかしさを抑えて湯浴みをした。
ラウルに隠すことは諦めたものの、他の人々には決して気取られなかったはずだ。
「アルノルト殿下……!」
「――――……」
そうしてリーシェが飛び込んだ寝室では、アルノルトはいつもと変わらない涼しい顔をして、寝台に腰を下ろしていた。
その手には書類を持っている。
彼が生きていることと、それでも安静にしていてくれないことに、リーシェは泣きそうな気持ちになった。
「駄目です、横になっていてくださらないと!」
寝台の傍に駆け寄って、アルノルトの足元の床にぺたんと座る。ほとんど力が入らないリーシェを見下ろして、アルノルトがあやすように頬へと触れてくれた。
「お前が取り乱す必要はない」
「ですが、お怪我が」
「すでに止血は済んでおり、それほど深くない傷だと判断した」
刺された場所と出血量を考えて、リーシェはふるふると首を横に振る。
「私にも確認させてください」
「……リーシェ」
「殿下ご自身での手当てが不安だというわけでは、ないのですが。どうか……」
傷口という弱点を他人に見せることを、アルノルトはきっと嫌うだろう。
それでもリーシェは彼を見上げ、寝台のシーツをきゅうっと握り込んだ。
「……お願いです、殿下……」
「…………」
リーシェの泣きそうな顔を見て、アルノルトが溜め息をつく。
手にしていた書類を寝台に置いた。アルノルトは腕を交差させるように自らのシャツの裾を掴むと、そのまま一気に裾を持ち上げ、脱ぎ捨てる。
彫刻のように美しく、引き締まった上半身が露わになった。
襟口から頭を抜いたとき、髪が乱れたのが煩わしかったのか、アルノルトはふるっと首を振ってそれを直す。
腰の辺りは細身に見えるのに、男性らしい筋肉のつき方をしたその体は、しっかりと鍛えられているのがよく分かるものだ。
平時に見ることになっていたら、きっと恥ずかしくてひどく動転していただろう。
それでもいまのリーシェには、芸術的なまでに均整のとれた体を前にしても、強い心配と焦燥の感情しか湧いてこない。
痛ましい傷跡が二箇所あり、ひとつは古傷となった首筋だ。
そしてもう一箇所は、真新しい包帯が巻かれたその腹部だった。
「ほら」
「!」
アルノルトはリーシェの手を取ると、自らの手を上から重ねる形で包帯に触れさせる。
「――好きにしろ」
「ありがとう、ございます……」
許しを得て、リーシェは確かめるために包帯を解いた。




