238 ふるふる震える
アルノルトが、リーシェを庇ったのだ。それを認識し、心臓が凍り付く心地がした。
(――――――殿下の、血)
六度目の人生が蘇る。騎士としてのリーシェは剣を取り、その切先を『アルノルト・ハイン』に突き付けた。
命懸けで戦い、ようやく彼の頬に一筋だけ傷を付けたときも、数滴の血が落ちた。
いまのリーシェを襲うのは、あのときには感じるはずもなかった恐怖心だ。
「――――……」
けれども次の瞬間、流血して尚も一切の揺らぎを見せないアルノルトが、すぐさま男の手首へと手刀を落とす。
「!!」
男が短剣から手を離した。アルノルトの一撃のその強さは、空気までびりびりと震わせたかのようだ。
女性が悲鳴を上げ、男が咄嗟に身を退くと同時に、アルノルトを傷付けた剣が甲板に落ちる。赤く濡れた刃が高い音を立てて、リーシェはそれにはっとした。
(私がいま、成すべきことは……)
「リーシェ」
「!」
アルノルトが剣を外し、リーシェに放る。
恐らくは『これで自分の身を守れ』と、そんな意味合いが込められていた。しかしリーシェはそれを受け止めると、すぐさま女性から離れる。
男が体勢を立て直そうとしたのと同時に、アルノルトが男の襟元を掴む。
アルノルトは右脚を後ろに振り切ると、その膝を男のみぞおちへと叩き込んだ。
「ぐ……!!」
「…………」
骨が軋むような音がする。けれどもそれは肋骨ではなく、男が咄嗟に構えた腕のようだ。ローブを目深に被った男が、口元を楽しそうな笑みで引き攣らせる。
「アルノルト・ハイン――……」
ローブの下に帯剣していたらしきその男が、アルノルトの前で二本目の短剣を抜く。男が再びアルノルトの方に踏み込もうとした、そのときだった。
「……っ!?」
きんっと高い音がして、弾かれた短剣が宙を舞う。
死角から現れたリーシェのことを、男はまったく予期していなかったようだ。アルノルトの冷静だが濃い殺気が、炎と共にリーシェを隠してくれた。
「殿下!」
「……」
アルノルトが再び振り払った蹴りを、男がすんでの所で躱わす。フードを掠め、少しだけその顔が顕わになるも、彼はその目元に仮面を付けていた。
「おっと……!」
男がアルノルトを避けた先に、リーシェは鞘を振り下ろす。渾身とも言える一撃を、男は腕で受け止めた。
そのままリーシェに伸ばされようとした手が、即座にアルノルトの重い蹴りによって弾き飛ばされる。
それでも致命傷にはならない。男は笑い、燃え盛る甲板の上で体勢を立て直した。
(この人、強い……!)
こちらが踏み込むための決定的な隙が、一部たりとも生まれないのだ。
表面上は涼しい顔をしたアルノルトのこめかみから、それでも汗の雫がひとつ伝う。甲板に落ちる赤色と共に、アルノルトが万全ではないことを知らしめた。
(止めなくちゃ、私が――……)
リーシェが駆け出そうとした瞬間に、男が更なる短剣を握る。
かと思えばその切先は、炎の境で震える女性に向けて投げられた。それを受け、アルノルトのよく通る声が響く。
「リーシェ」
「……っ!」
ここで女性を守っては、あの人物と戦えない。
アルノルトはそれが分かっていて、リーシェの名前を呼んだのだ。
こうすればリーシェがどうしても、あの男と交える刃を手放して、女性を守るために引き返すしかないことも。
いつだってアルノルトの手のひらの上だ。リーシェは投げられた短剣を刃で弾くと、そのまま入れ違うアルノルトに剣を投げる。
リーシェは女性の元へ、アルノルトは男の方へ、背中合わせでそれぞれに踏み込んだ。焼けた帆が上から落ちてくる前に、彼女の手を掴んで引く。
「こちらへ!」
「っ、はい……!」
そうしてリーシェが振り返ると同時に、アルノルトが剣を翻した。
アルノルトの持つ剣の真っ黒な刃が、甲板の端まで追い詰めた男の腹を迷わずに貫く。その鮮やかなまでの剣術に、リーシェは目を見張った。
(この状況でも、なんて凄まじい剣捌き――……!)
男が苦しそうな息を吐き、剣を握ったアルノルトの手を掴む。
赤色の血が溢れる男の口元は、笑っていた。
「……やはり、血は、争えないな……」
「……」
男の言葉に、アルノルトが僅かに眉根を寄せる。リーシェは炎から女性を庇って抱き寄せながら、ローブ姿の男を見据えた。
(アルノルト殿下のお父君を、知っている人……?)
けれども次の瞬間、男はアルノルトを間近に見上げ、思わぬ言葉を紡ぐのだ。
「――その美しい面差しが、お母君によく似ていらっしゃる」
「――――――……」
その瞬間、船が大きく揺らいだ。
「きゃあっ!!」
「っ、大丈夫です、落ち着いて……!」
リーシェの腕の中で、女性が悲鳴を上げる。男はそのままもう一度笑うと、後ろに大きく一歩引いた。
男の腹から剣が抜けて、血が流れる。アルノルトがその胸倉を掴む寸前に、男は背中から運河へと落ちた。
「……っ!!」
「リーシェ」
立ち上がろうとするリーシェに対し、アルノルトが冷静に剣の血を払う。
「追わなくていい」
その静かな声に止められて、リーシェはくちびるを結んだ。何かが水に落ちる音と共に、炎の向こうから騎士たちが駆け付ける。
「アルノルト殿下、リーシェさま! もはや消火は不可能です、脱出を!」
そう叫ぶ彼らは、アルノルトの負傷に気付かない。
「ただちに河岸に包囲網を敷け。腹と腕に負傷した男を見付け次第、それを捕えろ」
「……!? ――は。承知しました」
そう頷いた騎士たちが、気が付けるはずもないのだった。アルノルトはあくまで普段通りに振る舞い、夥しい血を流していることなど誰にも悟らせない。
(アルノルト殿下が隠していらっしゃる。私がここで騒ぎ立てて、知らしめる訳には……)
もうすぐ船が燃え落ちる。騎士たちは樽の水を撒き、リーシェたちが避難するための道を確保してくれた。
「リーシェさま、そちらの女性をお任せください。彼女の避難は我々が!」
「お願い、いたします……」
なんとかそう返事をしたリーシェは、アルノルトの袖をぎゅっと掴んだ。
薬師人生でも狩人の人生でも、騎士の人生でも多くの怪我人を見てきたはずだ。それなのに、指が震えている。
「…………」
アルノルトは少し目を眇め、リーシェを安心させるように手を添えて、やさしく撫でてくれた。
こうしてリーシェたちは、炎に包まれる船を後にしたのである。
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【6章4節へ続く】




