237 ぽたぽた落ちる
「そうすれば、自由になれると信じたのです」
「……それは……」
「私は生まれたときから家のための道具で、誰かに嫁ぐことしか価値がなくて。妻になった先で夫に従順でいる、それを務めだと決められて……!!」
彼女の華奢な肩は、背負ってきたものに耐えきれなかったかのように震えている。
「貴族の家に生まれたから。それでも食べる物に困らない生活を出来ることがどれだけ幸せなのかと、自分に言い聞かせてきたつもりです。だから耐えなくてはと決めていました、たくさん努力しました……!」
「……っ」
運河を渡る風を受け、炎が轟々と燃え上がる。リーシェと彼女を隔てる火も、黒煙を吹きながら勢いを増した。
(この状況で、無理やり手を引くことは出来ない。気絶させて運ぶにも、周りに散る火が……!)
彼女の背後は船の手すりで、そこから飛び降りられるのも一大事だ。その上に彼女の悲痛な言葉が、リーシェの胸を締め付けた。
「……分かっています。これは私の言い訳、間違った方向に覚悟してしまった私の……! それでも、逃げようと言って下さったのです。同じ境遇の女の子たちを誘って、集めて、みんなで一緒に逃げれば良いと。それが人買いの船だなんて知らなかった、こんなことになるなんて思っていなかった……!! だって、『あのお方』が私を」
女性がゆっくりと後ずさる。瞳からいくつも涙を零し、彼女は虚ろな声で呟いた。
「船に乗せて、下さると……」
(……自由な生き方に、憧れて……)
その思いは、リーシェにも痛いほどによく分かる。
彼女はそれを選ぼうとしたのだ。誰かが強い憧憬に付け込んで、船出という名の甘言を囁いた。
(孤独な令嬢を商いの相手にして、ただ捕らえた訳ではないのだわ。奴隷商船であることを隠して、この先に望んだものがあると希望を持たせた)
そして、裏切ったのだ。
道具として生きることへの想いも、その果てに自由を手に出来た喜びも、リーシェにだって覚えがあった。
それを踏み躙られた絶望と、周囲を巻き込んでしまったという自責の念は、どれほど彼女を途方に暮れさせたことだろうか。
「挙句にこうしてまた、逃げようとしました。あのお方が、ここに来なかったのも当然のこと……」
(……船に乗っての逃亡を、彼女に唆した人物がいる……!)
確かめなくてはならないが、仔細を尋ねるのは今ではない。
まずは彼女を落ち着かせて、この燃え盛る船から連れ出さなくてはならないのだ。
「ごめんなさい、リーシェさま。私は行けません、この船を降りられません……!」
(罪悪感と恐怖心、取り返しのつかないことをした焦りによる混乱だわ。この炎で、殊更に煽られてしまっている)
「どうせ何処にも逃げられない。それでしたら、ここで……」
「――では」
彼女の耳に届く強さを持った言葉を、リーシェは冷静に言い放った。
「ここで死ぬ方法を、私と一緒に考えましょう」
「……!」
彼女が目を見開く。
けれどもリーシェが告げたかったのは、本当に彼女が命を落とすことではない。
「想像してください。もしも自分がここで死に、これまでの人生で最悪となるその日まで、戻ったとしたら?」
炎の中でも聞こえるように、リーシェは淡々と、それでもはっきりとこう紡いだ。
「あなたはまた最初と同じ選択をして、同じ人生を繰り返すことを選びますか?」
「…………」
女性が繰り返し瞬きをする。
やがて彼女はぎこちなく、それでもはっきりと首を横に振った。
「いい、え」
火の粉が爆ぜ、船が何かに引っ張られるように揺れる。河岸に辿り着いた船体が、しっかりと係留されたのだろう。
「繰り返したく、ない」
「…………」
それは小さな声だった。
彼女は自身を抱き締め、その肩に爪が食い込むほど強く力を込める。
「……戻れるならば、やり直したい……」
「であれば」
確かな意思の感じられる言葉に、リーシェはほっとして目を眇める。
「その転換地点は、過去でなく今にあります。今ここで、これからやり直せる方法は必ず存在するのです」
「……そんなもの、あるはずが……」
「『あのときこうしておけば』という選択肢だって、過去のあなたには見えていなかったはず。それでも今こうして振り返るあなたには、後悔となって浮かんでいるのではありませんか?」
「……っ!」
女性が泣きながら顔を歪めた。
リーシェの言葉に縋りたくて、けれどそうは出来ないと思い込んでいる、そんな葛藤の中で苦しむ表情だ。
「ひとりでは難しいかもしれません。そんなときは、私が一緒に考えます」
「……取り返しがつかない。私の間違いは、誰も許してくれるはずがない……」
「それでも考え続けるのです。この先あなたが、あなた自身で選んで進むべき道を」
リーシェが自分に出来たことを、他人が同じように出来る訳ではない。
それが分かっているからこそ、それでも諦めないでほしいと願う。
「あなたにはまだ、やり直すことを選ぶ自由があります」
「……自由……?」
「どうか炎の中で、途方に暮れて立ち止まるのではなく。誰かの用意した船に、乗せられるのでもなく……」
彼女の中にある勇気を信じ、リーシェは祈った。
「あなたが心の奥底で、本当に選びたい道を」
「――――……っ!」
震える彼女のその足が、リーシェの方に一歩だけ歩み出た。
炎と炎の切れ目がある。彼女がこちらに来てくれれば、リーシェがその手を引いてあげられる。それに安堵した、そのときだった。
「――まったく、無駄話が多いんだな」
「……!?」
異質なまでに楽しそうな声がして、リーシェは咄嗟に振り返る。
(……誰……?)
そこには背の高い男が立っていた。
彼は真っ黒なローブを纏い、目深にフードを被っている。その布が耐火性のものであることが、リーシェの目にははっきりと分かった。
「やはり、君を生かしておいては無駄話が多そうだ」
「あ……」
女性の声が震えている。男は端正な口元に笑みを浮かべ、彼女の方に駆け出した。
(あの人、短剣を!)
男が纏った柔らかな殺気に、何をするつもりなのか理解する。凶刃を防がなくてはならないが、ここから男を直接止めるのは間に合わない。
リーシェは咄嗟に駆け出して、女性を抱き込むように庇う。
反射的に脳裏に浮かんだのは、かつて仕えた少女を庇い、首筋を毒矢が掠めた日のことだ。
(あんなお顔を、もうさせたくない)
この命を心から案じてくれる人がいる。リーシェは一切の反撃を放棄して、少しでも致命傷を負いにくいよう、防御姿勢を取ることに集中した。
けれどもそのとき、リーシェのことを誰かが抱き寄せた。
「!!」
守られたのだと理解して、リーシェは咄嗟に顔を上げる。
そうして視線の先にいた彼の名前を、途方に暮れて呟いた。
「……アルノルト、殿下……」
「――――……」
表情を変えないアルノルトの側腹部から、赤い血の雫が滲んで落ちる。




