235 運命のひと
いま、こうして触れていたことを後悔などしたくなかった。それでもリーシェは、アルノルトの聡明さを知っている。
(……アルノルト殿下と繋いだ手から、私の怯えが伝わったかもしれない)
アルノルトの方を見ることが出来ず、リーシェは俯いてしまった。
『あの男は父殺しを行ってからすぐに国境を閉鎖し、運河改造の動きを決して漏洩させなかった』
騎士の人生で、リーシェはいくつも耳にしたのだ。
あれはガルクハインの軍船が押し寄せ、リーシェたちシャルガ国の騎士が必死に戦う中、遅れて届いた国外からの知らせだった。
『造船職人が国外に出たら処刑する法律などの比ではない、徹底した情報統制で、何人も殺して』
先ほどリーシェが願ったのは、そんな未来に反する光景だ。船出のための美しい祈りが変わらないようにと、そう口にした。
アルノルトがそれを肯定しなかったのは、リーシェに対する誠実さだろうか。
(ガルクハインにおける公共工事についての資料は、私もすべて目を通したわ。この運河に関する変革は、公の計画に上げられていなかった。つまり、いずれこの景色が見られなくなる理由があるとしたら、アルノルト殿下が秘密裏に進めているもの)
心臓が、先ほどまでとは違う早鐘を刻んでいる。
(何気ない相槌。アルノルト殿下が未来で起こすことを知っている私にしか、引っ掛からないはずの……)
それがリーシェの思い込みだと、そう笑って忘れてしまえればよかったのに。
(アルノルト殿下が、諜報や隠密行動に優れた能力を持つラウルを、傍に置き始めたのもきっと、クーデターの……)
これまでの疑問の答えを察してしまうのと同時に、アルノルトに穏やかに尋ねられた。
「――どうした?」
(……っ)
その声音はやはり、泣きたくなるほどにやさしくて柔らかい。
アルノルトが進む血塗れの道が、残虐な皇帝としてではなく、彼の中にある決して揺るぎのない理由で選ばれるのだと確信してしまうほどに。
「……いいえ」
自分の甘さを痛感しながら、リーシェはアルノルトと繋いだ手の力を強める。
(アルノルト殿下はお父君を殺す。そして侵略のための戦争を起こす。私がこの国に来てからもずっと、そのための準備を進めている……!)
そしてリーシェはどうあっても、アルノルトの凶行を止めなくてはならない。
ゆっくりと顔を上げて、目の前の愛しい相手を見据える。アルノルトの双眸は真っ直ぐに、リーシェのことを見つめていた。
(アルノルト殿下。……私の、大切な旦那さま)
リーシェにとってはたったひとり、唯一の恋焦がれる人だ。
(……どこまで行っても私の存在は、この人の敵……)
「……リーシェ」
そのことを自覚した、直後のことだった。
「――――!」
不意に嫌な気配を感じ、運河の上流に視線をぱっと向ける。
そこに浮かんでいたのは、とても大きな帆船だった。
「……あの船」
ゆっくりと進んできた船は、これから海に出るのだろうか。
同時に見上げていたアルノルトも、リーシェと繋いでいた手を離す。甲板にはランプらしき灯りが揺らいでいて、それはひとりの女性が手にしたものだった。
「アルノルト殿下」
こんな夜更けに旅立つ船に、女の人が乗っている。
それ自体は有り得ないとまでは言い切れない。けれどもリーシェが驚いたのは、彼女に見覚えがあったからだ。
「あの船に乗っているのは、人買いから助け出した、女性です……」
「――――……」
その瞬間、アルノルトがリーシェを抱き寄せる。それと同時に川のほとりから、矢が風を切るような音がした。
アルノルトに庇われる腕の中で、リーシェはすぐさま矢の行方を視線で追う。その矢は夜空を切り裂く白い鳥のように、女性を目掛けて急降下した。
「あ……っ!!」
リーシェが声を上げた瞬間に、その矢が女性のランプを射抜く。硝子のランプが砕け散り、女性が悲鳴を上げた。
(――駄目!)
甲板へと、一気に炎が燃え広がる。
リーシェは急いで振り返るも、弓の主がいたらしき場所の様子は見えない。この状況では何よりも、乗船者の救助が最優先だ。
そこに軍靴の靴音がして、数人の近衛騎士が駆け付けた。
「失礼いたします、アルノルト殿下! これは……!?」
周辺の警備についていたのは、アルノルトの優秀な近衛騎士たちだ。リーシェたち同様に気配を察知し、異常事態を悟ったのだろう。
(消火のための活動や運河管理者との連携は、アルノルト殿下にお任せすれば大丈夫。あとは……)
リーシェの目に入ったのは、鋭い鉤のついたロープだった。小さな船を岸へと寄せる際、船上から桟橋などに投げて引っ掛けるためのものだ。
「リーシェさま!?」
ロープを抱えたリーシェが駆け出すと、騎士たちが驚いて声を上げた。アルノルトは眉根を寄せたようだが、リーシェのことを止めはしない。
「――大規模な船上火災に発展する可能性がある。伝達役以外の人員を消火と避難誘導、救出と救護に分けて行動。直ちにオリヴァーに伝達し、手勢を集めろ」
「はっ!」
「周囲の船乗りの家を回り、船の扱いに慣れた人手を増やせ。全員俺が指揮を取る」
(ごめんなさい。自由にさせてくださってありがとうございます、アルノルト殿下……!)
きっと心配を掛けている。アルノルトに心の中で謝りながらも、リーシェは船と並行するように走った。




