232 与えられるものの大きさに
アルノルトは少し目を眇めたあとに、意外なことを言う。
「お前が最も好みそうな光景は、まだ先にある」
「そうなのですか?」
今でもこんなに美しいのに、もっと綺麗なものがあるというのだろうか。リーシェがわくわくして目を輝かせると、アルノルトが柔らかな声で尋ねてきた。
「もう少し、歩けるか?」
「はい!」
楽しみなのが抑えきれない気持ちで返事をしたら、アルノルトがふっと笑った。ふたりで歩き出しながらも、慌てて確かめる。
「は、はしゃぎすぎて小さな子供みたいでしたか?」
「……いいや?」
(でも、お口元が少しだけ笑っていらっしゃる……!)
リーシェはむむむと口を噤みつつ、改めて周囲の景色を探る。
(辺りに誰かの気配は無し。私たちが夜のお散歩をするからと、騎士の皆さまが各所で警備をして下さっているお陰だわ)
アルノルトと繋ぐ手をあまり意識しないようにして、リーシェは告げた。
「経過をお伝えいたします。アルノルト殿下」
「話せ」
頷いたリーシェの胸に宿るのは、薬師だった人生と騎士だった人生、それぞれの矜持だ。
「私はあのあと男装を解いて、誘拐被害に遭った女性たちの様子を見て参りました。海賊たちに飲まされた薬の影響は、皆さま抜けたご様子です」
「報告を受けている。お前の薬がよく効いたようだな」
「はい、ひとまずは安心いたしました。そして、解毒薬の効能が証明出来たということは……」
「――つまり」
こちらの考えを察してくれたアルノルトが、小さく息をつく。
「海賊共が使用する眠り薬を、無効化する薬が調薬出来るという算段か」
「仰る通りです。……私が囮役を務める際も、より確実に策を進めることが出来るかと」
作戦において重要となるのは、『令嬢リゼ』として海賊にリーシェを攫わせることだ。
すでに攫われた残りの女性たちを救出するためには必須だが、その作戦が始動したところで、誘拐先のリーシェが動けなくなっては意味がない。
「…………」
「殿下?」
けれどもリーシェの報告の仕方は、アルノルトを呆れさせたようである。
「本来ならば言うまでもないことだが。計画の成功率よりも、自分の安全を最優先する思考を持て」
「も……申し訳ありません」
少し眉根を寄せたアルノルトの横顔を見て、心配を掛けていることを自戒した。
とはいえ、起きているのは国を跨いだ人身売買だ。ここでリーシェが上手く立ち回らなければ、犠牲を最小限に抑えることは出来ない。
(未来で起こる戦争と、同じように)
恋しい人に窘められても、決意を揺るがすことはなかった。
「万全の状態で挑みます。幸いにしてアリア商会が先日から、この街をガルクハイン拠点のひとつにしていますので! 調薬に不足しているものがあっても確保可能かと」
「調薬の手は足りているのか? 予備を含めて十分な量を用意する場合、材料だけあれば足りるというものでもないだろう」
「理論上は問題ありませんが、準備に遅れの兆候が見られた時点ですぐさまご相談いたしますね。大聖堂での反省は、十分に生かすつもりです」
「それでいい」
数ヶ月前、リーシェの首筋を毒矢が掠めた一件の際は、予備も含めたすべての解毒薬を患者のもとに運んでいた。
運搬中の事故を警戒してのことだったが、結果としてリーシェの解毒に時間が掛かってしまったのだ。
(実は今回の解毒薬については、事前にたくさん作り溜めしているのだけれど。この街で起こる出来事を事前に知っていたと見抜かれてしまわないよう、絶対内緒にしておかなくちゃ)
ひっそりと気を引き締めつつ、懸念事項を口にする。
「女性たちについてですが、皆さまいまは落ち着かれたご様子でした。ガルクハイン国からの手厚い保護を感謝なさっていたほどで、とても気丈です。……いくら暴力に晒されていないとはいっても、怖い思いをされたはずなのに……」
彼女たちはリーシェの診察を受けながら、ひとりひとりが丁寧にこんなことを述べたのだ。
『助けて下さってありがとうございました、リーシェさま。偉大なる未来の皇太子ご夫妻に、心から感謝を申し上げます』
『いいえ。どうかいまは何もお気になさらず、ご自身のことだけを大切になさってください』
六度目の人生でシャルガ国の騎士だったリーシェにとって、シャルガ国の人々は守るべき存在だった。
任務では令嬢たちの護衛にあたることも多く、こうして傍についていると、その笑顔を守るために必死だった日々が思い出される。
『私に出来ることがあれば、お申し付けを。お心の安寧に必要なこととあらば、どのような手間も惜しみません』
リーシェは寝台に座った女性の手を取ると、強い決意を込めて告げた。
『あなたが微笑みを取り戻すために、私は全身全霊を尽くしましょう』
『…………!』
女性は少し驚いたようで、きょとんと目を丸くしたのである。
『まあ……どうしましょう。まるで本物の騎士さまのようですわ』
『あ! も、申し訳ございません』
六度目の人生で身に染みた習慣のひとつが、女性を徹底して守る騎士道精神だ。つい発揮してしまった言動を誤魔化しつつ、安心してもらえるような言葉を探す。
『異国の地でのご不安もおありでしょうが、シャルガ国には既に遣いが出ているようです。すぐにおうちに帰れるはずですので、今はそのためにもゆっくりとお休みを』
『……』
するとそのとき、女性は遠くを見るようなまなざしでこう呟いたのだ。
『そうしたら、私は今度こそ嫁がねばなりませんのね』
『……?』
リーシェが瞬きをすると、女性は困ったように微笑んだ。
『親が決めた結婚ですの。お相手の方は自他に対して厳格なお方で、少し……怖くて』
『……それは』
『ですが、海賊より恐ろしいということはありませんわよね』
女性が明るく苦笑したので、リーシェも曖昧に微笑んだ。これ以上はリーシェも容易に踏み込むことは出来ない、彼女の問題だ。
「攫われてしまった、女性たちは」
少し俯いたリーシェは、アルノルトの隣を歩きながら告げる。
「そのお心に、深い寂しさを抱えていらっしゃったようでした。聞けば皆さまご結婚間近で、もうじき花嫁になられるはずだったのに」
「……」
「海賊たちが私と殿下のお芝居に引っ掛かったのも、恐らくは前例があったからなのでしょう。家族にも婚約者にも愛されない『リゼ』とあのご令嬢たちは、どうやら同じ境遇なのです」
彼女たちの心情を思うと、胸が苦しくなる。
アルノルトはきっと、リーシェの心が沈んだのを察したのだろう。ただでさえこちらの歩みに合わせてくれていたのに、更に歩調を緩めてくれた。
そして、アルノルトの静かな声音が紡ぐ。
「醜悪な政略結婚の犠牲になることは、奴隷になることと変わらないものだろう」
「……っ」
ずきりと胸が痛んだ理由は、リーシェとアルノルトの婚姻も、政略結婚のひとつであることだけではない。
(アルノルト殿下の母君も、定められた結婚の犠牲になられたお方……)
ガルクハイン現皇帝の侵略を免れるために、女神の血を引く巫女姫だったアルノルトの母が差し出されたのだ。
その母は命を落としており、それはアルノルトが殺したのだと語られている。
アルノルトはリーシェを一瞥すると、浅く溜め息をついた。
「……目を瞑れ」
「?」
リーシェが首を傾げると、アルノルトが立ち止まってこう続ける。
「目的の場所まであと僅かだ、俺がお前を抱き上げて歩く。良いと言うまで目を開けるな」
「抱き……っ、な、何故ですか!?」
「抱えるぞ」
「ひみゃあ!!」
有無を言わさず横抱きにされて、リーシェは咄嗟にアルノルトの首へとしがみついた。何が何だか分からないものの、反射的に閉じた目は開けずにおく。
「アルノルト殿下! い、一体……!?」
「お前に先ほどのような目をさせるために、ここに連れ出した訳ではない。――それならばいっそ、閉じておくべきだろう」
「ひょっとして、私が目を瞑って歩くと危ないからこそのお姫さま抱っこだったりしますか!?」
普段はリーシェが振り回している自覚はある。けれどもアルノルトのこうした接触に関しては、リーシェの方が冷静でいられない。
「せ、せっかくの気晴らしにお連れいただいたのにごめんなさい! 自分で歩けます、だから降り……っ」
「被害者の今後が気に掛かる中で、自身が踏み込める範囲ではないと躊躇しているのかもしれないが。そうだとしても普段のように、お前が考え抜いた結論を示してみれば良い」
「!」
アルノルトの思わぬ言葉に、リーシェは思わず目を開けた。
間近に見上げるアルノルトは、リーシェを抱き上げて歩きながらこう続けたのだ。
「忘れるな。――お前の夫は成し得る限り、お前の望みを叶えるということを」
「……!」
穏やかで真摯なその言葉に、リーシェの左胸が甘く締め付けられる。
「もう一度言う。目を瞑れ」
「っ、はい!」
急いでぎゅっと瞑目したリーシェに、アルノルトが笑ったような気配がした。
「お前の思う『最善』を、これまでのように俺に示してみろ。得意だろう」
「滅相も……! というか殿下、この状態は何処まで……!?」
「いま着いた」
「!」
そう言ってアルノルトはリーシェを降ろす。再び石畳の上に立たされるが、依然としてここは運河沿いの道のはずだ。
「開けていいぞ」
「……では」
なんだか妙に緊張してしまい、どきどきしながら目を開ける。
そうして目の前に広がっていた光景に、リーシェは息を呑んだ。
「わあ……!」
紙で出来たたくさんのランタンが、運河の上に浮かんでいるのだ。
紙の向こう側に透けた蝋燭の火が、水面に美しい光を揺らしている。その揺らぎは星の瞬きにも似て、とても幻想的な灯りとなっていた。
ランタンは数十どころの数ではない。この大きな運河を埋め尽くそうとせんばかりに、いくつもいくつも浮かんでいる。
それを上からこうして眺めると、夢の世界のような光景が広がった。
「星空で出来た川の上に、立っているみたい……」
振り返ったアルノルトは、リーシェのことを見つめている。
この鮮やかな景色こそ、アルノルトが見せようとしてくれたものなのだ。




