231 とても幸せに感じます
その男は、長身の体を長椅子に横たえていた。
その椅子の傍には暖炉があり、真夏だというのに煌々と炎が燃えている。退屈そうなまなざしの男は、その手に束ねられた書類へと目を通し続けていた。
彼は一枚紙を捲るごとに、読み終えたものを暖炉に焚べる。
緩慢に手を伸ばし、手元を見ることなく紙を炎に放り込みながら、やがてぽつりと呟くのだ。
「アルノルト・ハイン」
運河の水面に揺らめくのは、星の光にも似た瞬きだ。男は窓辺にも目を向けず、最後の一枚から手を離した。
「――あの忌まわしき血を引く皇太子殿に、目通りを願う時が来たようだ」
***
リーシェが騎士の人生を振り返ると、そのほとんどがヨエルとの思い出になった。
なにしろヨエルは同室であり、先輩であり、リーシェが剣術を学ぶ参考にした『天才』だ。
『ルーシャス。……ルー、こっち。俺のとこおいで』
年月を経て親しくなったヨエルは、そうやってリーシェの偽名『ルーシャス』の愛称を呼び、弟のようにリーシェを可愛がった。
『ヨエル先輩! 寝癖が盛大なのはいつもの事ながら、さすがに国王陛下の前でその頭は由々しき事態かと。というか団長に確実に叱られます!』
『気になるんだったらルーがどうにかして。俺はギリギリまで寝てるから、ふわあ……』
『もーっ、先輩!』
無防備な猫のように振る舞うヨエルに、リーシェはたくさん振り回されたものだ。
櫛を持ち、侍女だった人生で身に付けたことを活かそうとしていると、ヨエルは満足そうに目を細める。
『後輩は、先輩の言うことを聞くんだよ』
リーシェが来るまで最年少だったヨエルは、彼にとって初めての後輩であるリーシェに言った。
『その代わりお前の先輩は、後輩のことを守ってやるから』
『……ヨエル先輩……』
周囲から聞くヨエルの話は、いつも内容が決まっている。
常に眠そうで何もしないこと。周りに合わせる様子すらなく、騎士道精神など持ち合わせていないこと。
しかしそれらを補って余りあるほどの、剣術の天才であること。
誰とも協力することなく、たったひとりきりで戦い、その戦法でこそ最も実力を発揮すること。
『ヨエルは誰とも連携しない。あいつの剣技に合わせられる人間が、何処にもいないからだ』
かつての人生における騎士団長は、少しだけ寂しそうに笑いながらそう言っていた。
『ヨエルが戦場で補助をしてやる相手なんて、世界中を探してもお前だけだよ。ルーシャス』
実際に彼の言葉通り、ヨエルはリーシェを助けてくれたのだ。
そうして最期にはリーシェを庇い、皇帝アルノルト・ハインの剣によって命を落とした。現在迎えている七度目の人生において、リーシェはふとこんな風に考える。
(天才剣士であるヨエル先輩があのとき命を落としたのは、私が一緒に戦っていたから。……それならいつか同じように、アルノルト殿下も)
ランタンを手にしたリーシェは、少し先を歩くアルノルトの背中を眺める。
星が満天に輝く下、運河を流れる水の音を耳にしながら、何処かぼんやりと想像した。
(私がお傍で戦うことで、いつかこのお方を危険に巻き込むときが来ることだって……)
「――リーシェ」
「!」
振り返ったアルノルトに名前を呼ばれて、リーシェは顔を上げた。
思考を見抜かれているかのようなタイミングで、ほんの僅かに心臓が跳ねる。こちらに向けられたアルノルトの青い瞳は、リーシェのことを真っ直ぐに見据えているのだ。
「何か、考え事でもしているのか」
「いえ! 申し訳ありません、歩調が遅れてしまい……!」
本当に何もかもがお見通しで、アルノルトには敵わないと心から感じる。それでもリーシェは想いを隠し、アルノルトの隣へと急いだ。
「焦らなくて良い」
「で、ですが」
「リーシェ」
運河に沿ったこの遊歩道は、赤茶色の石畳によって舗装されている。そんな道を踵の高い靴で歩くリーシェのことが、アルノルトには危なっかしく見えたのだろうか。
「……おいで」
「!」
そう言って差し出された大きな手に、リーシェは恐る恐る手を重ねた。
この『おいで』という柔らかな呼び掛けは、つい先日からアルノルトが使うようになったものだ。リーシェが仔猫を呼んだのを真似て、リーシェに対してだけ口にする。
淡々としていても穏やかな声は、向けられるととてもくすぐったい。
アルノルトの左手がリーシェの手をやさしく包んだので、それだけで思わず指先が跳ねた。
「どうした?」
「い、いえ……! この形で殿下にエスコートしていただくのが、なんだか緊張して」
「なんだそれは」
アルノルトに訝しそうな顔をされるのだが、恋心の所為だと言えるはずもない。
昨晩が『お嬢さまと従者役』などという役割分担だったことや、昼間に『皇太子と近衛騎士見習い』の振る舞いをしたことが原因だと考えてもらえることを祈りつつ、リーシェは周囲を見渡した。
「それにしても、本当に綺麗ですね」
リーシェがまなざしを向けたのは、すぐ傍らを流れる運河だ。
さざ波の立つその水面は、街の明かりを写し込んで、まるで流星群の星空のように輝いていた。
「アルノルト殿下が、私にこんな景色を見せようとして下さるなんて……」
「――――……」
そのことがとても幸せで、リーシェはアルノルトに微笑んだ。




