228 喜びがいっぱいに満ちています
「よってこの先も、ローヴァインを俺の傍に置くことはない」
「アルノルト殿下……」
アルノルトに後ろから抱き竦められ、彼の大きな手で目元を覆われたまま、リーシェは立ち尽くす。
(……いま)
どうしてこんな風に触れられるかが分からなくて、こくりと喉を鳴らした。
(私が女神像を見ることを、忌避なさった……?)
この目隠しは、リーシェの自由を奪う行いだ。
けれどもアルノルトは、リーシェの身の安全に関わること以外で、リーシェに何かを強いたことはない。
危険なことを除いては、何かを禁じられたことだって一度もない。
「……」
アルノルトの手がするりと離れ、一歩後ろに下がる。
いま来た道の方から聞こえる足音に、リーシェもそちらを振り返った。この靴音は、本来足音を立てずに歩ける人間が、わざと響かせているときの音だ。
「でーんか。それから、新入りのルーシャスくん」
(ラウル)
近衛騎士の衣服に身を包んだラウルは、その手で何かの鍵を弄びながらやってくる。リーシェは新入りの騎士らしく、迅速にそちらへと駆けて行った。
「お疲れさまです、先輩!」
「おおいいね、苦しゅうない。殿下との見回りは順調か?」
「はい! 現在は倉庫の確認をするため、隊長殿が鍵を取りに行ってくださったのを待っています!」
先輩と後輩のふりをしながら、現場についてを共有する。ラウルは口の端でにっと笑い、リーシェに金色の鍵を放った。
「隊長殿がお戻りになるよりも、殿下が隊長殿をクビにする方が早いんじゃねえ? 鍵の紛失とか理由にして」
「そんな面倒なことをする訳がない。処罰を下せるだけの不正の証拠など、とうに集め終わっているからな」
ふたりの会話を聞きながら、リーシェは鍵を空に翳す。この鍵を必死に探し回っているはずの騎士隊長は、自分の命運にまだ気が付いていないだろう。
「それと、ここからはふたつ伝言が。――まずひとつ、殿下のご婚約者さまであらせられるリーシェさまの婚礼衣装ですが、本日の衣装合わせは延期したいと職人が」
「!」
思わず声が出そうになったものの、『ルーシャス』として一応は耐える。周りに他の気配が無いことは分かっているが、念の為だ。
リーシェを一瞥したアルノルトが、代わりにラウルに尋ねてくれる。
「――理由は?」
「どうやら昨日、アルノルト殿下とリーシェさまが街を散策なさっているご様子を、職人が目の当たりにしたようで。リーシェさまの美しさに見合う刺繍はこんなものではないと、更なる手を加えているようです」
(職人さんのお仕事が増えちゃってる……!!)
恐らくは実際に着る人間を見たことで、イメージの修正などが発生したのだろう。その熱意を有り難く思うと同時に、申し訳なくも感じる。
「だ、大丈夫なのでしょうか。職人さんは」
「職人の方からの申し出だからな。あとは予定の変更について、リーシェさまが承諾なさるかどうかだ」
「それはもちろん! ……と、お答えになるかと……」
素敵なドレスになるのであれば、リーシェも嬉しい。アルノルトから贈られた指輪と合わせた刺繍を入れてもらっているため、合わせて身につけるのが楽しみだ。
(着れるのが今日では無くなるのは、少し残念だけれど……その分だけ、わくわくする時間が長く味わえるもの)
「そんじゃ、続いてアルノルト殿下。オリヴァーさんがお呼びですんで、一度この視察は切り上げていただけましたらと」
恐らくわざとそうしているのだろうが、ラウルはふざけ半分の言葉遣いだ。
けれどもその点を除いてみれば、いまのラウルの振る舞いは、やはりアルノルトの臣下に近過ぎる。
「ここの見回りの続きは、俺とルーシャスくんとヨエル殿でやっておきますんで」
「…………」
アルノルトは表情を変えず、どうでもよさそうにラウルに命じた。
「――ならば、監視を緩めるな」
「へいへい。じゃあ一旦呼びに行ってきますよ」
引き返してゆくラウルの背中を見詰めつつ、リーシェは思考を巡らせる。
「……アルノルト殿下からご覧になっても、ラウルはやはり傍に置きたい存在ですか?」
「別に。使えるものを使えるように使う、それだけだ」
(ローヴァイン閣下のときとは、はっきりと違うお答え……)
ただ単に合理的ということか。
あるいは何か、理由があるのだろうか。
「それでは」
リーシェは真っ直ぐに向き直り、もうひとつの質問をアルノルトに向けた。
「私は、あなたのお役に立てていますか?」
「……」
どうして自分に求婚したのかと、これまでに何度か問い掛けを重ねた。
けれどもリーシェはもう二度と、アルノルトにそれを問うことは出来ないだろう。尋ねたことによって返ってくる答えを、聞くのが怖いと感じてしまうからだ。
「……俺には」
アルノルトが緩やかに目を伏せて、こう口にする。
「お前が居なければ成し遂げられないことが、いくつもあった」
「!」
思わぬ答えが返ってきて、息を呑んだ。
海の色をしたアルノルトの双眸は、本物の海よりも美しい。飾られた長い睫毛に陽光が透けて、海の瞳に水面のような影を落としている。
「そしてそれは、この先にも間違いなく存在する」
「殿下」
そしてアルノルトは、こう続けるのだ。
「――断言しても、構わない」
「……!」
不確定なことを嫌うであろうアルノルトが、そんな言葉を口にした。
たったそれだけの、けれど何よりも得難い答えだ。いまここで何か返事をすれば、声が震えてしまう気がした。
(っ、駄目……)
慌てて俯いたリーシェを見て、アルノルトがふと呟く。
「……そういえば、埋め合わせをする必要があるな」
「埋め合わせ?」
「それで良いと返事をしていたが、残念にも感じていたんだろう。お前が好みそうな光景を、今夜この街で見せてやれる」
思わず顔を上げて首を傾げれば、アルノルトはまるで涙を拭うかのように、リーシェの睫毛を親指でなぞる。
「衣装合わせが延期になった分だ。……それでいいか?」
「!!」
アルノルトのそんな言葉に、リーシェは言い表せないほどの感情を抱いた。
「……ありがとう、ございます」
嬉しい気持ちがいっぱいになりすぎると、どのような顔をしたら良いのかが分からなくなるらしい。けれどもやっぱり嬉しくて、リーシェはなんとかこう告げる。
「嬉しいです。……すごく、とっても……」
「……ああ」
まったく上手く言えた気はしないが、リーシェの感情は伝わったようだ。穏やかな声音による相槌を聞き、途端に恥ずかしくなってしまった。
「あ……アルノルト殿下はオリヴァーさまの元に戻られるのですよね!? 僕もラウル先輩を手伝って参ります、それでは!」
リーシェは急いでそう言うと、ヨエルを同行させるのに苦労しているであろうラウルの方に駆け出す。
「――――……」
その場に残ったアルノルトが、静かなまなざしでリーシェの背中を見据えていることなど、当然知るよしもないのだった。




