224 ひとまず行動あるのみです!
女性たちは湯船のリーシェを労りながらも、ありとあらゆる施術を行なってくれている。
「とても指通りの良い、素敵な髪をしていらっしゃるわ。髪に美容液を付け終えましたので、蒸したタオルで温めながら浸透させますわね」
「それから頭とお顔のマッサージも。日頃たくさん読み物をしていらっしゃるのでは? しっかりお疲れを癒しましょうね」
「お体もお湯でほぐれたようですので、血行を良くして参りましょう」
(わああ……)
やさしく、それでいてしっかりと行われてゆくその施術に、リーシェはとろりと目を細めた。
(これが専門家の職人技……!)
お湯の温度は高くないはずなのに、全身が心地よくぽかぽかしている。
たっぷりのクリームを体に乗せ、特別に織り上げられたという布で肌を磨いてもらうと、透明感がぐんと増した。
浴室に差し込む太陽の光を反射して、ほんのりと発光しているように見えるほどだ。
(美容についてはどの人生も、いつも自分でお手入れしてきたから。誰かに身を任せていればいいのはすごく新鮮 ……)
リーシェの元で頑張ってくれている侍女たちには、『今後どんな主君に仕えることになっても必要になる技術を』という目標を掲げ、掃除や洗濯などのほかには勉学を優先して学んでもらっている。
リーシェは入浴なども大抵ひとりで行うため、こういった体験はあまり無かった。
(近くには、冷たくて美味しい飲み物も置いてもらっているわ。私が何もしなくとも、婚儀のためのお手入れが進んでゆく……素敵なゆったりのんびり生活……!)
顔に新しい美容液を塗ってもらいながら、その満足感に息をつく。
「このままお眠りになっていただいてもよろしいのですよ?」
「……とっても魅力的です。でも、その前にひとつだけ……」
リーシェはぱちりと目を開くと、クリームを塗ってくれている女性に尋ねた。
「この香り、もしや桃蜜花の花びらを使った美容液でしょうか?」
「まあ、ご存知でいらっしゃいます?」
「はい! すごく貴重なものなのに、こんなにたっぷり使っていただけるなんて……!」
驚いたように瞬きをした女性に、リーシェはわくわくしながら質問を重ねる。
「それも蕾の状態、花びらが開く一時間前に収穫されたものでは……! 時期の見極めが難しく希少なため、滅多に市場に出回らないものですよね?」
「お、仰る通りです。どうしてお気付きに?」
「ほんのりと柑橘類に似た香りが混じっています。開花直前で収穫した蕾しか持たない特有の香りで、この成分が非常に高い治癒効果を持つとか……」
薬師人生や錬金術師人生で、この成分を使った研究を行ったことがある。なかなか量が集められずに叶わなかったが、芳しい香りには覚えがあった。
「このクリームには、桃蜜花とハニーベリーオレンジが入っていますか? それから蜂蜜と、ううん……」
「よ、ヨーグルトです。他にも新鮮なシェリトの実の柔らかい果肉を擦り潰したものや、オルベリ草の若芽に……」
「オルベリ草! 私も自作の日焼け止めに入れています。しっかり保湿してくれるので重宝していて……」
「花嫁さまが自作の日焼け止めを!?」
女性たちの目がきらりと光り、リーシェの方に前のめりになった。
「しっかりと日差し対策をされた、素晴らしいお肌の状態だと思っていましたの。後ほど詳しくお聞かせいただけませんか!?」
「はい是非! 皆さまの施術方法についても、色々と教えていただきたいです。ひとつひとつの技術が素晴らしくて、これは新たな流行を生み出せる予感がひしひしとしますので……!」
頭の中に浮かんだたくさんの計画に、リーシェは胸を躍らせる。
(薬師人生と錬金術師人生の知識を総動員して、今世で自分用に作っているお化粧水や美容液。使い方をきっちり守らなくてはいけないこともあって、説明が行き届かない市場に流通させる勇気がなかったものだけれど……一流の職人さんと手を組めば良いんだわ! 今回はまず貴族向けに。人を雇う余裕がある女性たちに良さを知っていただいたら、次は――……はっ!!)
思考力を総動員している自分に気が付いて、そこでようやく我に返った。
「花嫁さま?」
「な、なんでもありません! どうぞ続きをお願いします!!」
無意識に上半身を起こしていたが、再び湯船のふちに背中を預ける。
(だめだめ。いまは働くことを考えず、のんびりしないと……! 薬草だって、心身が落ち着いている状態の方がよく効くんだもの。……そういえば東の大陸では、怪我の治療に温泉を使う地域があるわよね。薬湯の要領で美容液を使うのはどうかしら? 真っ先に気になるのは費用対効果だけど、この場合……じゃなくて!!)
リーシェは必死に考えを振り払いつつ、女性たちにお礼を伝えた。
「ありがとうございます。こんな風にお手入れしていただいて、婚礼衣装を着るのが楽しみです」
「あら花嫁さま。婚礼衣装だけではございませんわよ」
「?」
首を傾げたリーシェに対し、女性がにこやかに微笑んで言う。
「ご夫君に魅力を感じていただけるように、お肌をすべすべに致しませんと!」
「っ、わぷ……!?」
「きゃあ、花嫁さま!?」
つるんと背中が滑ってしまい、お湯の中に顔までどぷんと沈んだ。リーシェは慌てて体を起こすものの、心臓はばくばくと音を立てている。
「けほっ、ご夫君……っ!? 魅力、えええ……っ」
「あら、それはそうですわよ。皇太子妃さまの重要なお勤めですもの」
「〜〜〜〜……っ」
思わず心から動揺するが、顔を火照らせながらも自分に言い聞かせた。
(お、落ち着いて、大丈夫……!! そんなことにはならないわ。だって)
甘い香りに包まれながら、そっと深呼吸をする。
(……アルノルト殿下からは、白い結婚を宣言されているんだもの……)
かつて訪れた大聖堂で、アルノルトはリーシェの頭を撫でながら口にしたのだ。
『たとえ婚姻を結んでも、お前に手を出すような真似はしない』
『…………え』
その言葉に連なって、もうひとつ思い出す言葉がある。
『……俺の妻になる覚悟など、しなくていい』
(…………)
左胸がずきずきと疼くように痛んで、リーシェはしゅんと俯いた。
あのとき、アルノルトの言葉が深く突き刺さったのも、彼に恋をしていたからなのだ。
(以前の殿下は、お父君のやり方を憎んでいるのにもかかわらず、私に同じ手段を使って婚約をさせたと仰っていたわ)
裏を返せば、そうまでしてでもリーシェを望んだ理由があるのだろう。
(隠し事があるのは私も同じ。アルノルト殿下の戦争という手段を阻むもので、たくさん秘密を持って嘘をついているもの。……私があの方に想いを告げるには、『あのこと』を果たさなくては……)
そこまで考えたところで、リーシェはふと自分の思考に違和感を持つ。
「……?」
「どうされました? 花嫁さま」
女性に声を掛けられて、リーシェは顔を上げた。
「ご、ごめんなさい。なんでもないのです」
そう言って、心の中で誓いを立てる。
(アルノルト殿下のお考えが読めなくとも。……求められているのが、妻や妃の役割では無いからこそ、私は私自身としてあのお方の傍にいられるわ)
そうであれば、やるべきことをやるだけだ。
「花嫁さま……?」
じっと考え込んでいるリーシェを前に、女性たちが顔を見合わせる。
「……婚儀の前は色々な不安が重なって、気持ちも落ち込みやすくなるものですよね。ですが、元気を出してくださいまし!」
「そうですわよ! 今日は夕刻、ドレスのご試着に行かれるのでしょう?」
女性たちはリーシェを励ますように、やさしく声を掛けてくれた。
「施術が終わったあとは、のんびり寛いでお過ごしになっては。楽しいご予定があるのですから、すぐにお心も晴れるはずです」
「み、皆さま……」
それを有り難く受け取りつつも、リーシェは内心で申し訳なく感じた。
(有り難いけれど心苦しいわ。だって今日の夕刻、ドレスの試着に行くのは本当とはいえ……)
そしてすっかり磨き上げられ、支度をしたリーシェが外出した先を、あの女性たちは予想し得なかっただろう。
***
「それではアルノルト殿下。どうぞ存分に、我々の警備状況を視察なさって下さい」
その男性は、運河の街を警備している騎士隊の長なのだそうだ。
アルノルトの後ろに立ったリーシェは、その騎士隊長を観察した。彼がアルノルトを見た時の顔色からして、なんとなく状況が察せられる。
(この騎士隊長さんはきっと、アルノルト殿下に反発している立場なのだわ。アルノルト殿下の視察が不都合なのか、あるいはお父君である現皇帝陛下に従っているか……)
アルノルトには敵も多いのだと、弟のテオドールが言っていた。リーシェは改めて気を引き締めると、アルノルトに向かって尋ねる。
「アルノルト殿下、どちらから参りましょう? せっかくの視察の機会であれば、この運河を隅々までご覧になりたいと仰っていましたが――……」
「…………」
アルノルトがこちらに向けるのは、僅かに物言いたげな視線である。
それをひしひしと感じつつも、リーシェは堂々と胸を張った。
「――このルーシャス。『アルノルト殿下の近衛騎士見習い』として、何処までもお供いたします!」
「――――……」
はあ、と気怠げな溜め息が溢れる。
つやつやに磨かれた肌の上に、アルノルトの騎士のための制服を纏った男装中のリーシェは、アルノルトに向けてにこりと笑うのだった。




