222 かつての頭首とかつての先輩
【6章3節】
リーシェとアルノルトの乗った馬車は、奴隷商人の商船が停まる港から離れたあと、運河の街ベゼトリアの細い路地へと入り込んだ。
尾行されていないことは確認済みだ。それでも路地をぐるぐると周り、途中でいくつかの馬車に乗り継いで、万が一追っ手がいたときの対策を打っておく。
これについてはアルノルトが、全面的にリーシェに任せてくれた。
アルノルトは普段、尾行をわざわざ撒くことはせずに別の手を打つそうだ。そのためか、リーシェが御者にルートを伝えるのを、隣で面白がるように聞いていた。
そうしてやっと皇族用の屋敷に戻ったあと、リーシェはエントランスでアルノルトに念を押す。
「アルノルト殿下。先ほど私がおねだりしたこと、本当に叶えて下さいますか?」
「……」
アルノルトは、脱いだ上着をオリヴァーに預けながら、僅かに苦い顔をして言った。
「叶えてやる。ただし」
「ひゃ」
屈み込んだアルノルトが、そのくちびるをリーシェの耳元に寄せる。
「約束通り、『その件』は徹底して隠し通せ。……出来るな?」
「〜〜〜〜……っ」
すぐ傍で紡がれる囁き声が、柔らかく耳に触れてくすぐったい。
リーシェは自分の口元を手で押さえ、必死にこくこくと頷いた。顔が真っ赤になっている自覚はあるが、こんなものどうしたって避けられるはずもない。
リーシェから離れたアルノルトは、依然として物言いたげな表情のままだ。そのやりとりを見ていたオリヴァーが、従者らしくアルノルトに進言する。
「我が君。婚約者さまに意地悪をしては駄目ですよ」
「していない。――このくらい分かりやすく言い聞かせておかなければ、こいつは平気で危険な真似をする」
(ううう、確信犯……!!)
リーシェが恥ずかしくて大変なことになるのを、アルノルトは自覚して振る舞っているのだ。オリヴァーの言う通り、ある意味で意地悪なのである。
「お、お風呂に入って参ります! それでは!!」
リーシェはなんとかそう告げて、エントランスの階段をぱたぱたと上がった。恐らくはアルノルトがオリヴァーに対し、リーシェのねだった『あること』の説明をしておいてくれるはずだ。
(それに明日は午前中、ドレスとは別の支度があるわ。オリヴァーさまが手配して下さっていた技術者の方、とっても楽しみ……あ!)
浴室のある三階を目指していると、人の気配が近付いてくるのを感じる。階段の踊り場についてみれば、想像していた通りのふたりに出会った。
「ラウル。ヨエルさま」
「よお姫君。遅い時間のお帰りで」
ヨエルの後ろを歩いていたラウルが、へらっとした軽やかな笑みを浮かべる。ヨエルは相変わらず眠そうな目で、ゆっくりとした瞬きを重ねていた。
「ヨエルさま、ご体調はいかがですか? 薬は少しずつ抜けていくはずですが、ご無理をなさらず」
「んむ……」
「この剣士殿はずっと眠っていて、いまようやくお目覚めなのさ。一応殿下に言われた通り、『お嬢さまと従者の潜入作戦』については説明しておいたが」
「そうだったのね。ありがとう、ラウル」
「滅相もございませんお嬢さま。いまはおふたりがご帰宅なさった気配を感じたので、お出迎えに参る途中でございました」
わざとらしく一礼したラウルのことを、ヨエルが無感情に振り返る。ラウルがヨエルと行動を共にしているのは、アルノルトがそう命じたからだ。
『あの剣士はシャルガ国側の情報を持ち、奴隷商人の幹部の顔を見ているのだろう。利用した方が効率がいいのであれば、別行動を取る理由も無い。その代わり』
アルノルトはラウルに対し、ヨエルと行動を共にするよう告げた。
(アルノルト殿下にとって、ヨエル先輩は味方かどうか断定できない存在。それを監視させるにあたって、ラウル以上の適任はいないわ)
ラウルは『狩人』の頭首である。気配を辿ることも追うことも、隠れている人間を探し出すことも、諜報集団である『狩人』の得意とすることだ。リーシェだって、狩人人生にラウルから教わった。
(けれど)
この状況を、もちろん怪しんでもいるのだった。
(アルノルト殿下は、随分とラウルを便利に使っていらっしゃるわ。こうも容易く信用なさっていることが、意外に感じられてしまうほどに……)
ラウルがアルノルトに従うのは、ラウルが仕えるシグウェル国に、アルノルトが手を差し伸べたからだ。造幣事業による協力体制に恩義を感じており、そのために動くと言っていた。
(……利便性が感じられるものであれば、躊躇なくそれを使うのがアルノルト殿下。それはよく知っているし、人材にも適用されるというだけなのかもしれないけれど……)
それにしても、あまりに重宝しすぎているのではないだろうか。
(こんなことを目の前で考えていたら、すぐにラウルに見抜かれてしまうわ)
そんな内心は顔に出さないよう、リーシェはいたっていつも通りに振る舞う。もしもラウルに見抜かれていたとしても、彼だって顔には出さないだろう。
「それにしても相変わらず、こんなことまでやるとはな。皇太子殿を従者役にして囮作戦、それも皇太子妃殿下が囮なんざ」
「だ、だから! 私はまだ殿下の奥さんになれた訳じゃないんだってば……!」
呆れ半分に揶揄ってくるラウルに対し、一応はちゃんと反論しておいた。
するとそのとき、これまでぼんやりして眠そうに聞いていたヨエルが、突然リーシェの方に歩み出る。
「――ねえ」
「!」
ヨエルはずいっと身を乗り出し、リーシェの顔を至近距離から覗き込んだ。
「……ヨエルさま?」
「不思議なんだ。『アルノルト殿下』は間違いなく、ひとりきりで戦った方が強い人なのに」
茫洋とした光を宿すヨエルの瞳が、不意にしっかりとリーシェを捉える。
「……それなのに、どうして君なんかを必要とするのかな?」
「え……」




