221 やさしい婚約者
「そんなことより」
「まむ……っ」
アルノルトの大きな手が、リーシェの両頬をむにっと押さえる。
「出された葡萄酒を飲もうとしていただろう。得体の知れない酒に、口を付けようとするんじゃない」
「むむむ……。ふぇも、ひょっとふらいは飲まにゃひと、怪ひまれまふひ」
アルノルトにむにむにと頬を揉まれながらも、リーシェはなんとか反論した。
「ほれにあのおしゃけは、あうのるとれんかが……」
先ほどのことを思い出す。船内で提供された葡萄酒は、リーシェがグラスを手にした途端、従者の顔をしたアルノルトに回収されてしまったのだ。
『まあ、ひょっとしてこちらはシャルガ国のお酒ですか? 素敵、早速いただきま……あ!』
『いけません。お嬢さまは酒に弱くていらっしゃるのですから、控えていただきませんと』
あまりにもそつのない、流れるような没収ぶりだった。
アルノルトとは何度か酒席に出ているため、リーシェがそれなりに酒精への耐性があることを知っているはずなのだが、何食わぬ顔で偽られた形だ。
「ひくらはんでも、あの場れ毒を入れるほとはないでひょうひ。警戒ひた方が不自然に見えまへんは?」
「そうだとしても。お前を狙って拐かすつもりの連中が出したものを、わざわざ飲むんじゃない」
「ひゃむ……」
もっともな指摘に反省しつつも、見下ろしてくるアルノルトの顔が間近にあって、リーシェは平静が装えなくなってくる。
(ひょっとしてアルノルト殿下は、私のほっぺたをむにむにすることが、お仕置きの方法と考えていらっしゃるのかしら……)
それが狙いならば効果覿面だ。顔がどんどん火照ってしまうし、とにかく恥ずかしい。
リーシェが内心であわあわと焦っていると、その動揺が表に出てしまっていたのだろうか。アルノルトがやがて、小さな溜め息をついた。
「お前の策だということは承知しているが。――あまり無防備な所を、連中に見せるな」
リーシェから手を離したアルノルトが、静かだが真摯なまなざしを注いでくる。
「あれらは、お前に害を及ぼすものだ」
「――――っ」
青く透き通ったアルノルトの双眸が、息を呑むほどの冷たさを帯びた。
(……忘れてはいないわ。アルノルト殿下であれば、私のような作戦を講じるまでもなく、ガルクハインの圧倒的な武力を投じて奴隷商人を制圧できるということを)
その手段を選ばずにいてくれるのは、いま捕らわれている女性たちを全員無事に救出したいという、そんなリーシェの望みがあるからだ。
(本当はやさしいお方であっても。だからこそ犠牲を伴うやり方で、迅速な解決を目指す方法も検討されていたはず。だからこそ……)
リーシェは改めて背筋を伸ばし、アルノルトに告げる。
「私が無防備な獲物だと思われるほどに、彼らの油断と慢心を招き、動きを制御しやすくなります」
「……リーシェ」
「ご安心を。女性たちを助けるために、すべてを利用しますから」
その覚悟を持ちながらも、リーシェは眉根を寄せて小さく零した。
「……もどかしいです。再びあの彼らに招かれる夜まで、今は待つしかないなんて」
「……」
攫われた女性たちは、支配人を疑うことなど無かっただろう。
それは当然だ。商人が危害を与えてくるなんて、普通は想像すらしない。
商人と顧客の関係というものは、本来であれば信頼を結び、商いを通じてお互いが幸せになれるはずのものなのだ。
(今夜の演技で十分だったのかしら。もっと私自身を上手く使って、奴隷商を急がせることも出来たんじゃ……)
「リーシェ」
「!」
アルノルトの手が、膝に置いていたリーシェの手に触れた。
繋ぐように指を絡められて、自分がぎゅうっとドレスの裾を握り締めていたことを自覚する。
リーシェが思わず息を吐くと、アルノルトは柔らかな声音で尋ねてきた。
「明日、婚礼衣装の試着があるのだろう」
「は、はい。夕刻に……」
先ほど船内で話したことは、奴隷商人たちに聞かせるための嘘というだけではない。この街に来る表向きの目的は、リーシェのウェディングドレスを最終調整するためなのだ。
「その際の護衛には俺がつく。少し待てるか」
「え!? アルノルト殿下が来て下さるのですか?」
目を丸くしたリーシェに対し、アルノルトはなんでもない様子で答える。
「奴隷商の前で、そうすると話しただろう。街中で目撃される可能性もある以上、あの場限りの嘘にするべきではない」
つまりは作戦の延長だ。リーシェは納得したものの、少し心配になった。
「とはいえ殿下。明日は恐らく刺繍や飾りの位置を話し込むので、お待ちいただくには退屈かもしれません」
「何故?」
リーシェを見下ろしたアルノルトが、そのまま柔らかく目を伏せた。
「お前が婚儀の衣装を着るのであれば、見てみたい」
「……!」
その言葉に、胸の内側がほわりと温かくなった。
戦争回避の作戦に使ってしまってはいるが、アルノルトとの結婚のために婚礼衣装を着ることを、リーシェはこっそりと楽しみにしていたのだ。
アルノルトの言葉は、その高揚を思い出させてくれるものだった。
リーシェの心が張り詰めていたことを、彼は見抜いてしまったのだろう。
「衣装に合う宝石も必要なのであれば、満足がいくものを好きなだけ揃えろ。――あそこにあるものが盗品でなければ、すべてお前に買い占めてやってもよかった」
「そ、それではあまりにも上客すぎて怪しまれます!」
リーシェは慌ててそう言いつつも、ほっとしてくちびるを綻ばせた。
(アルノルト殿下が、私をあやして下さっている……)
そのことを、心の底から嬉しく思う。
「アルノルト殿下」
リーシェは、アルノルトのことをじっと上目遣いに見詰めた。
「明日の件で、ちょっとだけおねだりしたいことがあるのですが……」
「――――……」
そしてリーシェが内容を告げると、アルノルトはものすごく顔を顰めたのだった。
***
【第2節終わり 第3節に続く】
 




