217 あらゆることに慣れません!
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(まさか、こんな状況になるなんて……)
乗船手続きを終え、その大きな船に乗り込みながら、リーシェは俯きつつ考えた。
ちらりと見上げたアルノルトは、リーシェをエスコートしてくれている。
けれどもそれは、いつものようにリーシェが彼の腕に掴まる形ではない。手だけを取り、危なくないように誘導してくれる、護衛のそれだ。
「甲板は揺れます。足元にご注意を」
前髪を上げて額を出し、黒手袋を付けたアルノルトの姿は、その口調も相俟ってなんだか知らない人のようだった。
その所為で、気を抜けばぼんやりとその顔を見詰めてしまう。
「お嬢さま?」
「あ……っ! も、申し訳ありませ……」
「……」
リーシェが咄嗟に謝ろうとすると、アルノルトは目を眇めた。
「首飾りの留め具の位置がずれているようですね。――私が触れることを、どうぞお許しください」
「!!」
アルノルトはリーシェを傍に引き寄せる。
それからリーシェの耳元にくちびるを寄せると、囁くように名前を呼んだ。
「――リーシェ」
「み……っ」
窘めるようなその響きに、少しだけ叱られているのだと分かる。
「『護衛』にそのような物言いをする主はいない」
「それは……」
心臓が早鐘を打つ中で、必死にアルノルトの声を聞く。彼は、僅かに掠れた声で言った。
「……上手く出来るな?」
「っ、う……」
リーシェはぎゅっと目を瞑り、こくこくと頷きながら必死に返事をする。
「わ、分かりまし……」
「こら。それでは駄目だろう」
「うう……!!」
そして、やっとの思いで口を開いた。
「っ、わ、分かったわ! ……ちゃんと出来る、から……」
すると、アルノルトはくっと喉を鳴らす。
(笑った……!!)
アルノルトはリーシェから身を離すと、その畏まった言葉遣いを、涼しい顔で続けるのだ。
「お手をこちらへ」
「……あ、ありがとう……」
あまりに慣れないやりとりのあと、リーシェは恋心という別の理由で緊張しながらも、アルノルトの手を再び取る。
「間も無く船が出航いたします。大型船ですので揺れは少ないですが、お気を付けを」
そう声を掛けられつつ、甲板から下った船内には、すでに大勢の招待客たちで賑わっていた。
(わあ)
紺色の絨毯が敷き詰められた船内は、壁や天井に固定された無数のランプで照らされている。
着飾った男女たちは、グラスを手に談笑しながらも、船内に並べられた品々を見定めていた。
ベルベットの飾り布が敷かれたいくつものカウンターには、宝石やアクセサリーを中心に、珍しい品々が並んでいる。
接客する商人たちは、誰もがきちんとした正装に身を包み、そつのない笑みを浮かべながら接客をしていた。
実のところ、『船内に設けられた夜会会場での商い』という部分だけで、リーシェには心惹かれるものがあった。
だからこそ素直に嬉しそうな振る舞いをして、後ろのアルノルトを振り返る。
「ご覧ください、とても素敵な……」
「…………」
「……んんっ」
青い瞳に視線を向けられて、リーシェは咳払いをする。そして、護衛に話し掛ける令嬢にふさわしい言葉選びで、改めてアルノルトに話しかけた。
「……み、見て! 並んでいるのはどれも、素敵な品々ばかりだわ」
「――私には真価など分かりかねますが。お嬢さまのお気に召したのであれば、何よりです」
(涼しいお顔をしていらっしゃる……)
この状況に、まったく動じている様子がない。けれどもリーシェにとっては、普段の夜会なら隣にいるはずのアルノルトが、リーシェの後ろに従う形なのも落ち着かなかった。
「……隣に来て」
そう言うと、アルノルトはそこで初めて眉根を寄せる。
「――お嬢さま」
「夜に初めての場所に来るのは、心細いわ。あなたが隣で一緒に見てくれれば、安心出来るもの……」
「…………」
「エスコートはなくても。隣にいてくれるだけで、いいの」
そうねだると、小さな溜め息をついたアルノルトが、リーシェの隣に並んでくれた。
「これでよろしいですか?」
「!」
ほっとしてこくこくと頷くものの、やっぱりお互いの言葉遣いが慣れない。
そわそわしてアルノルトから視線を逸らすと、船内にいる招待客の女性たちが、アルノルトを熱心に見ていることに気が付いた。
(皇城での夜会とは、また違った視線だわ……)
普段のアルノルトは、婚約者のいる皇太子である上に、わざと冷酷な噂を広めている人物だ。
一方でそういった先入観のない場では、女性たちはその熱を隠さない。けれどもアルノルトは、その女性たちがまったく視界に入っていないかのような振る舞いで、リーシェに告げる。
「参りましょう」
「……っ、ええ」
やさしい声に緊張しながらも、リーシェは自分に言い聞かせた。
(大丈夫、問題なく行動出来るわ。アルノルト殿下のお役に立って、その上で――……)
思い出すのは、騎士人生の団長の言葉だ。




