216 緊急事態に抗えません
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その夜、ベゼトリアの港につけられた大型客船には、煌びやかに着飾った乗客たちが乗り込んでいた。
乗船手続きをしているのは、ベスト姿の男性だ。男性はリーシェに気が付くと、笑顔を向けて歩み寄って来た。
「ようこそお越しいただきました。あなたさまは、トゥーナ公爵閣下からご紹介いただいた……」
今夜のリーシェが纏っているのは、手持ちのドレスの中では露出の多い紺碧のドレスだ。
髪をアップにし、しゃらしゃら揺れる耳飾りを付けたリーシェは、手続きの男性に礼をする。
「初めまして。ベルンシュタイン子爵の長女、『リゼ』と申します」
夜会姿に着飾ったリーシェは、にこりと微笑みを浮かべる。扇子を手に、ごく自然な振る舞いで偽名を名乗った。
「友人のコルネリアさまからこちらの会の評判を聞き、急な我が儘を申し上げました」
「滅相もございません。ガルクハインで新たに興されたご家門とのことで、我が商会のご案内が遅れており申し訳ありませんでした。船内では支配人も、ご挨拶の機会を待ち侘びております」
この夜会に潜り込むために、リーシェたちは大急ぎで準備をした。巻き込んでしまった人々に申し訳なく思いつつ、リーシェは心の中でどきどきしている。
(だ……大丈夫かしら。私、うまく『お買い物に来た子爵令嬢』を演じられてる……?)
少々の演技めいた振る舞いであれば、これまでにも何度か経験がある。しかし、今回リーシェが緊張しているのは、同行者の存在があるからだった。
(今回は少し、勝手が違うというか。なにせ一緒に来て下さるお方が……)
「ご家族はご一緒でなく、リゼお嬢さまおひとりのご乗船でよろしいですか?」
「……お買い物をするのは私ひとりです。ですが……」
そしてリーシェは、一歩ほど後ろに立つ人物に視線を向けた。
リーシェの傍に居てくれるのは、アルノルトだ。
「……」
普段のリーシェたちであれば、こういった場で先に話し掛けられるのは、皇太子であり未来の夫であるアルノルトになっている。
だが、今日は事情が違うのだった。
前髪を上げ、普段は見えない額を出したアルノルトは、雰囲気が更に大人びている。
一歩前に出てリーシェの手を取ると、いつもとは違う、恭しい口調でこう述べた。
「その辺りにお立ちになられては、お召し物が濡れてしまいます」
「う……」
「波から御身をお守りすることは難しいので、もう少しこちらへ」
アルノルトは続いて静かな声で、リーシェをこんな風に呼んでみせる。
「――『お嬢さま』」
(ひえ……っ)
その響きがなんだかとんでもなくて、リーシェは頬が火照るのを感じた。
商会の男性は、得心がいったように微笑んでみせる。
「なるほど、護衛をお付けなさるのですね。剣の持ち込みはご遠慮いただいておりますが、それでもよろしければ」
「は、はい、承知しております……!」
慌てて承諾したものの、動揺が出てしまったのだろう。
そのとき、隣でリーシェを眺めるアルノルトがほんの少しだけ面白がるような目をしたことを、リーシェはしっかりと見逃さなかった。
『当然だが、俺もお前に同行する』
今日の昼間、商品候補として囮になることを提案したリーシェに対し、アルノルトは『条件』としてそう告げた。
『ですが殿下。首尾よく私が狙われたとしても、いきなり今夜攫われるということはないはずです。恐らく後日、秘密裏に計画が進むはずで、今宵は恐らく安全だと思うのですが……』
『そういう問題ではない。第一、令嬢がひとりで出歩く方が不自然だろう』
アルノルトの言うことは尤もだ。手間を掛けてしまうが、アルノルトも一緒に来てもらう方向で話を進めることにした。
『偽造した家名を名乗るのであれば、殿下と私は同一の家にしないといけませんよね。それでしたら、妥当に夫婦役を』
『――どうだろうな』
『?』
首を傾げると、呆れ果てた顔のラウルが発言した。
『……あんたら化け物夫婦のすることに、細かいことを言うのは一旦やめておくとして。俺も殿下と同意見だ、夫婦設定はやめておいた方がいい。下手すると作戦自体が無意味になる』
『無意味って、どうして?』
『奴隷候補として誘拐されに行くおつもりなら、連中の狙っている条件に当て嵌まる設定じゃなきゃいけないだろ。助け出された女たちが何も乱暴なことをされていない以上、攫う女は清い体であることが必須条件のひとつなんだ。よって、既婚者は駄目』
『な、なるほど……』
しかし、そうなると少しややこしくなってくる。
『それではどうしましょう? 私たちが婚約者という名目にしてしまうと、もうひとつ架空の家門が必要になってしまって大変ですよね』
テオドールが偽造したという新しい貴族家は、なにも名前だけが作られた訳ではない。屋敷や業績など、実体のあるものを丁寧に積み重ねられた上での偽造だ。
『兄と妹に致しますか? 殿下が私のお兄さまで、私が妹というのは?』
『兄妹で遠出の買い物に出るというのも、それはそれで不自然だろう』
『そ、そうでしょうか……』
そんなことは無いように思えるのだが、リーシェはなにせひとりっ子なので、その辺りの感覚には自信がない。
『貴族の身分が必要なのは、囮を演じようとしているお前だけだ。俺はそれが必要のない立場で、お前の傍にいることが自然な役割を勤めればいい』
『? それはつまり……』
アルノルトは、そこで目を細める。
『これが、お前に囮めいた真似をさせるにあたっての条件だ』
『で、殿下?』
なんだか少しだけ意地の悪い、言うなれば意趣返しのような表情に見えるのは、果たしてリーシェの気のせいだろうか。
続いて、アルノルトはこう口にしたのだ。
『俺は、お前の護衛である「従者」として同行する』
『え……』
数秒の後、リーシェは大きな声を上げた。
『ええええええええっ!?』
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