213 職権濫用はいけません
「ヨエルさまとの交渉については、後でアルノルト殿下にお話しいたします。ひとまずは、殿下と一緒に上のお部屋に戻ってもよろしいですか?」
「――ああ」
(よかった)
アルノルトが肯定の返事をしてくれるだけで、心がほっと解けるような気がする。だが、それで思考まで腑抜ける訳にはいかない。
(気を引き締めなくちゃ。ヨエル先輩の情報を元に、海賊による人攫いを解決するのがここでの目的。アルノルト殿下の手腕であれば、きっと解決は容易いはずだけれど……殿下に頼るだけでは駄目だわ)
先を歩くアルノルトの背中を見詰めながら、リーシェは自分にも言い聞かせる。
(この事件によって、シャルガ国から情報が流出してしまう。それこそが未来で起きてしまう戦争において、アルノルト殿下の世界侵略の武器になるんだもの……)
騎士人生で見た光景を、リーシェは決して忘れない。
『急ぎ申し上げます、陛下!!』
『海上に敵船!! 掲げられた鷲の国旗から、ガルクハインの船かと……!!』
『っ、馬鹿な……!』
真っ黒な海の果てに浮かび上がったのは、突如現れた無数の船だ。
『ガルクハインが何故、あの造りの船を所有している――……!?』
あれこそが、アルノルト率いるガルクハイン軍の強力な武器のひとつだったのだ。
(――島国シャルガの持つ国家機密。海戦と長期航海、どちらにも耐え得る船の造船技術)
リーシェは無意識に、きゅっとドレスの裾を握り締める。
(海賊によって攫われたシャルガ国の技術者が、ガルクハインに知識をもたらすわ)
その結果、ガルクハインは海向こうの国々を侵略できるようになる。
(……アルノルト殿下が、戦争のための道具として『船』を得ることは、阻止しないと……)
それこそが、アルノルトの戦争を止めるために、リーシェがこの街で果たそうとしていることなのだった。
***
この街の運河に流れる水は、海と同じ青色を帯びている。
散策用の軽やかなドレスに着替えたリーシェは、かすかに潮の香りがする風に胸を弾ませながら、橋の下の透き通った水に目を輝かせた。
「ご覧くださいアルノルト殿下、お魚!」
「そうだな」
隣を歩くアルノルトは、目の前の事実を淡々と肯定するように答える。
だが、リーシェがもう少し下を見たくて欄干に手を掛けると、アルノルトはリーシェの肩を抱くように触れた。
「びゃ……っ」
「あまり身を乗り出すな」
至近距離で目が合ったアルノルトは、やはり淡々とこう続けるのだ。
「風が強い。お前は軽いから、突風が吹くと煽られて落ちるぞ」
「!? いえ、そのようなことはありませんからね!?」
「っ、ふ」
びっくりしてそう告げると、アルノルトは面白がるように目を細める。ほんの少しだけ笑う表情に、心臓がますます早鐘を打った。
「あの、アルノルト殿下」
「なんだ」
リーシェはちらりと辺りを窺う。
「……オリヴァーさまの仰っていた、『仲睦まじい様子を国民の方々に見ていただく』ことは、これで達成できているでしょうか……?」
「……」
そう尋ねると、アルノルトもリーシェと同じように、けれども面倒臭そうに周りを一瞥した。
この橋の上には、現在アルノルトとリーシェの他に、離れた場所から近衛騎士たちが追従してきている。
さらに離れた場所からは、通りすがりに噂を聞き付けた人々が、物珍しそうにリーシェたちを見詰めていた。
護衛が人々を遠ざけているため、なんとなくの表情しか分からないものの、どうやら笑顔で見守ってくれているようだ。
『――お部屋で引き続き作戦会議を? ははは。何を仰っているのですかおふたりとも』
『…………』
先ほどのオリヴァーは、ヨエルの客室から戻ったリーシェたちに向けてこう言った。
『今回の名目は婚前旅行ですよ? どんどんご一緒に外出の上、仲睦まじいところを国民に印象付けていただきませんと』
『お、オリヴァーさま?』
『そうでなければ、婚儀直前のこの時期に皇都を離れるなど不自然ですから。作戦会議をなさるのであれば、ウェディングドレスを合わせに行く道すがらにでもいかがですか?』
『いえ、ドレスは明日の予定で……!』
『でしたら河辺の散策ですね。未来の皇太子ご夫妻として、民衆に円満ぶりを見せ付けていただければ幸いです。はい、それではいってらっしゃいませ!』
『あ、あわわわ!!』
『………………』
そんな調子で、有無を言わさずに外出の流れとなってしまったのだ。そのときのことを思い出したのか、アルノルトは僅かに眉根を寄せる。
「オリヴァーが口うるさく言うのは放っておけ。あいつであれば本来、たとえ俺たちが一歩も外出しなくとも、それをいかようにも表現して筋立てを整えるはずだ」
(アルノルト殿下はやっぱり、分かりにくくてもオリヴァーさまを信頼していらっしゃるのよね……)
遠くに見える人々は、やっぱりにこにこと微笑ましそうだ。リーシェはそれが気恥ずかしくて、意味もなく運河の方に視線を向ける。
(アルノルト殿下と仲睦まじくすることも、婚約者である私の役割。それは十分に分かっているのだけれど、でも……)
しかし、やっぱり心配になってしまう。
(……婚約者の立場を悪用して、こういうのは職権濫用と言うのでは……!?)




