211 かつての先輩に駆け引きします
【本日2回目の更新です】
前話をお読みでない方は、ひとつ前のお話からご覧ください。
ヨエルに手首を掴まれたリーシェは、体を少し後ろに引きながらも尋ねた。
「あ、あの、剣士さま。お話の前に、あなたのお名前とお立場もお聞きしたいのですが」
「……俺の話なんて、勝負に必要……?」
ヨエルは眠そうに顔を顰めながらも、渋々と口を開く。
「……ヨエル・ミルカ・ロイヴァス。シャルガの騎士」
「ヨエルさま」
これでようやく彼の名を呼べるようになった。リーシェは、誤って『先輩』と口にしてしまわないように気を付けながら言葉を続ける。
「生憎ですが、その『勝負』のお申し出を受ける訳には参りません」
「なんで。俺、ちゃんと名乗ったのに……」
むすっと拗ねた顔のヨエルが、リーシェのことを見上げる。
「それはですね」
「!」
リーシェは護身術のひとつを使い、瞬時にヨエルの手を振り解いた。空いた手で素早く相手の指を押し剥がし、掴まれた方の腕を回す。
両手を自由にした上で、ヨエルの肩をとんっと押した。
「うあ」
それだけでヨエルは寝台に沈み、手の甲を目元に押し当てて呻き始めた。
「…………まわる……。ぐるぐる、視界が…………」
「海賊に薬を飲まされたのでしょう? まだ抜け切っていないので、何卒ご安静に」
リーシェはきっぱり言い切って、寝台から少し離れた場所でヨエルを観察した。
(六度目の人生で聞いたお話。……潜入捜査でガルクハインに向かったヨエル先輩は、攫われた女性たちを助けた後、アルノルト殿下に会ったと仰っていたわ)
ガルクハインの話を聞きたかったリーシェが、眠る前にヨエルにねだったのだ。
二段重ねの寝台の下段で、上段にいるヨエルの語ることを聞き、ガルクハインのことを想像してみる。アルノルト・ハインに会ったくだりを聞いた際、リーシェはしみじみと口にした。
『ヨエル先輩、よくアルノルト・ハインへ斬り掛からずに我慢なさいましたね』
『いや、俺がそこで我慢なんてするわけないでしょ。もちろん剣を抜いたよ』
『抜いたんですか!?』
『ふふん』
『いえあの先輩、誉めていないですからね!』
ヨエルは『けれど』と言葉を零した。
『あの男、俺に対して剣を抜きもしなかった』
『――……』
あのときのことを思い出したリーシェは、寝台のヨエルを見下ろして息を吐く。
「ヨエルさま、ひとまずあなたにご説明を。先ほど船内にいらっしゃった黒髪の殿方は、ガルクハインの皇太子、アルノルト・ハイン殿下です」
「……あのひと?」
ヨエルはやはり、興味を示した。その金色の目を細め、記憶の中に彼の姿を思い描いたのだろう。
「道理で、足音ひとつだけでも只者じゃないと思った……。あれが、たったひとりでいくつもの戦場を落としたっていう……」
「ですがヨエルさま」
リーシェは騎士人生と同じように、ヨエルに対して言い聞かせる。
「くれぐれも、アルノルト殿下に向かっていきなり剣を抜いてはいけません」
「……なんで」
「ちなみに斬り掛かるのも禁止です」
「なんで」
「それはもう、あらゆる理由から!」
「…………」
ヨエルは心底納得がいかないようで、むうっとくちびるを曲げた。
「……別に、君の許可なんかいらないし」
(騎士人生で先輩と同室になる前の私だったなら、きっと途方に暮れていたでしょうね。けれどもいまは、ヨエル先輩への対処法がはっきりと見えているわ)
最終的には団長から、『ヨエルの手綱を握れるのはルーシャスしか居ない』とまで言われたのだ。ヨエルを惹きつける言葉について、いまのリーシェは熟知している。
「もういいよ。君が遊んでくれないなら、『アルノルト殿下』を探してでも……」
「……ヨエルさま」
体を起こそうとするヨエルに向けて、リーシェはにっこりと言い放つ。
「――アルノルト殿下との手合わせについて、交渉をお手伝いしましょうか?」
「!」
まるで耳の良い動物のように、ヨエルはぴんと反応を示した。
「……手合わせの、交渉?」
その眠そうな双眸に、そわそわした光が揺れ始める。
「ヨエルさまだって、不意打ちめいた方法でアルノルト殿下と剣を交えるよりも、真っ向から本気の勝負をしてみたいですよね?」
「……真っ向から、本気の勝負……」
ヨエルはゆっくり体を起こすと、寝台のふちにちょんと座ってリーシェを見上げる。
「――したい」
「ふふ。そう仰るような気がしていました」
すっかりリーシェの話を聞く体勢になったヨエルに対して、心の中でそっと詫びた。
(ごめんなさいヨエル先輩。私が提案させていただいたのは、あくまで『交渉』をするだけです。……手合わせが絶対に出来るとは決して言っていない、完全なる悪徳商人のやり方ですが、これもヨエル先輩のためですので……!)
胸は痛むが、アルノルト相手に剣を抜かれて外交問題にする訳にはいかない。六度目の人生では事なきを得たようだが、今度もその通りに運ぶとは限らないだろう。
「ではヨエルさま。アルノルト殿下への交渉を行う代わりに、私たちにもご協力いただけませんか?」
「協力?」
「アルノルト殿下の下には、シャルガ国王陛下からのお手紙が届いているそうで。……あなたは海賊による人身売買事件を探るため、シャルガ国からいらしたのですよね」
すると、ヨエルは訝るように目を細めた。
「……そういえば、そもそも君ってなに?」
「なに、と仰いますと……」
「ふわふわで、珊瑚色のお菓子みたいな見た目なのに。船の中で飛び込んで来て、その細い腕であいつらと戦ったんでしょ?」
ヨエルは立ち上がり、裸足のままぺたぺたとリーシェの前に歩み出た。
「女の子だけど、ガルクハインの騎士? ……でも、アルノルト殿下に交渉できる立場なんだよね。変なの」
「ヨエルさま。立ち上がってしまわれると、また目眩が……」
「第一に、アルノルト殿下はあの船の中で、俺から君を守るように立っていた――……」
ずいっと間近にリーシェの顔を覗き込んだヨエルが、リーシェの瞳の中を見透かすように目を細める。
「リーシェ。君は一体、アルノルト殿下のなに?」
「……私は……」
後ろからこつこつと聞こえてくる靴音に、リーシェは当然気が付いていた。
けれど、次の瞬間にされたことは、予想だにしない上に緊急事態だ。
「ひゃああっ!?」
後ろに立った人物から、ふわりと抱き上げられたのである。
咄嗟にその肩に手を置くが、触れてしまったことを後悔する。接触している部分が増えれば増えるほどに、リーシェの心臓は跳ねるばかりだ。
見下ろした先には、ヨエルに向かって不機嫌そうなまなざしを向ける、アルノルトの姿があった。
「――妻だが」
「まっ、まだ、婚約者の身の上にしか過ぎないのですが……!?」
アルノルトに平然と抱えられたリーシェは、一気に頬が火照るのを感じながら、どうにか言葉を発することに成功する。




