210 かつての先輩が相変わらずです!
「失礼します。お目覚めですか?」
ノックをし、返事が無いのを確かめてからそっと開けた。扉は閉めず入り、寝台に近付く。
サイドテーブルには、先ほど運び込んだ治療用の道具が置かれたままだ。
そこで、眠っているヨエルを見下ろした。
(……馴染みの深い寝顔だわ……)
ふわふわした癖毛の赤髪に、白い肌。
たくさんの女性たちが羨ましがる長い睫毛と、繊細な印象の整った顔立ち。
すうすうと寝息を立てているヨエルの顔を見ていると、ほんの数ヶ月しか離れていなかったような感覚と、やっと再会したかのような懐かしさが入り混じる。
(六度目の人生は、本当につい最近のことのようにも感じられるけれど……それでもいま過ごすこの人生とは、明確に道が繋がっていないんだって分かる)
過去の人生に関する記憶は、リーシェの中にはっきりと鮮明に残っていながらも、『現在』とは透明な壁で隔たれているような感覚だ。
まるで、寝台の中に居ながら先ほどまで見ていた夢を思い出す、そんな気持ちになるのだった。
『――アルノルト・ハインが先代皇帝を殺め、皇位を簒奪してから僅か二年。……まさか、これほど早くに自国内を改革して、世界各国の侵略に乗り出すとは』
それは、アルノルトが各国に宣戦布告の通達を出したときのことだ。
いつも朗らかだった国王は、すべての騎士の前で張り詰めた表情を見せながら口にした。
『とはいえ我が国も二年の間、入念に準備を整えてきた。この国にガルクハインが攻め込んでくるとしても、恐らくは猶予があるだろう』
その隣では騎士団長が、やはり難しい顔をして立っている。国王は小さく息をつき、こう続けた。
『我がシャルガ国は島国だ。攻め込むには補給の問題がある上、歴史的に大陸内戦争ばかりしていたガルクハインは、海戦を不得手とするからな』
『陛下……』
『戦いの準備を始めてくれ。我らはハリル・ラシャと同盟を組み、協力してガルクハインを倒す。大陸側と海側から攻め込めば、十分に勝算はあるはずだ』
しかし、その考えは外れることになる。
シャルガ国が各国との同盟を結び終え、万全の体制でガルクハインと戦うための船を出そうとした矢先に、シャルガの国は絶望に染まったのだ。
『急ぎ申し上げます、陛下!!』
伝令は、張り詰めた声そう告げた。
『海上に敵船!! 掲げられた鷲の国旗から、ガルクハインの船かと……!!』
『っ、馬鹿な……!』
そうして海から現れた敵の姿に、誰もが信じられない思いを抱いたのだ。
『ガルクハインが何故、あの造りの船を所有している――……!?』
アルノルト・ハインの侵略戦争は、世界情勢に応じて柔軟に変化し、すべての人生において違う流れを辿った。
その結果、ガルクハインがこんなにも早く海を越えてくることは、過去人生の記憶があるリーシェにもまったく予想できなかったのだ。
『殿下たちを例の場所へ、一刻も早く!!』
『我らの光、我らの主! 命を懸けて守り切れ、たとえ死んでも道を繫げ!!』
騎士人生の最期の日を、リーシェはぼんやりと思い出す。
(――みんなもう、呼吸をしていない)
辺りを埋め尽くすのは、仲間の騎士たちの亡骸だ。
リーシェを「騎士に」と誘ってくれた気の良い国王は、幼い息子たちを守ろうとして、その目の前で殺された。
夜遅くまで熱心に指導をしてくれた団長も、父と母の死に泣きじゃくる王子たちを逃す中、それを庇って命を落とした。
島国であり、昔から周囲の各国と資源を争って戦ってきたシャルガ国の騎士団は、世界的に見ても兵力が高かったはずだ。
それでも、アルノルト・ハインの率いる軍勢には、まったく歯が立たなかった。
かつてヨエルに教わった『抜け道』を背に、そこを逃げているはずの王子たちを守るため、リーシェは必死に戦ったのである。
(ここで死んでもいい。私たちはどうなってもいい。……王子殿下方にお逃げいただくための時間を作る、ほんの一秒でもいいから……!!)
けれど、ガルクハインの軍勢とアルノルト・ハインに対抗出来たのは、『天才』と呼ばれたヨエルだけだ。
(……それなのにヨエル先輩は、私を庇って、アルノルト殿下に殺された)
アルノルトの剣が、ヨエルの腹部から左胸に掛けてを斬り裂いた。
リーシェが騎士の人生を終える、ほんの数分前の出来事だ。
(あの瞬間、私が無事なのを確かめて、ヨエル先輩はやさしく微笑んだわ。……その少し後に私も、アルノルト殿下に左胸を貫かれて死んでしまったけれど……)
七度目の人生を送るいまのリーシェは、アルノルトの婚約者だ。
そんな中で六度目の人生と同じように、寝台で眠るヨエルを見下ろしているのは、なんとも言えない気分だった。
「――ん」
「!」
ヨエルが身じろいで、ゆっくりと目を開く。
リーシェは居住まいを正し、かつてのヨエルに掛けたのと同じ、けれども少しだけ違う言葉で挨拶をした。
「……おはようございます。剣士さま」
「……」
繰り返された瞬きのあと、一見すると茶色に見える金の瞳がリーシェを眺めた。
「船内ではありがとうございました。あなたも薬を飲まされていたのに、他の女性たちを守るために戦って下さったのですね」
「……」
ヨエルはのそりと体を起こし、手の甲で目元を擦る。
リーシェはドレスの裾を摘み、正式な礼の形を取った。
「指にある剣だこから、剣術の経験者と見込んで無理なお願いをしてしまい、申し訳ございませんでした。私はリーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します」
「…………」
無反応でこちらを眺めるヨエルに対し、内心で考える。
(一応名乗って見たものの、ヨエル先輩はきっと私に興味が無いわよね。騎士人生での初対面では、覚える気も関わる気も無いって言われたくらいだし……)
しかし、そのときだった。
「……もう一回教えて」
「え?」
ヨエルの手が、リーシェの手首をきゅっと握った。
白くて華奢に見えるヨエルの腕だが、骨格や筋肉の付き方はしっかりとしていて男性らしい。そんなことを客観的に考えながらも、リーシェは瞬きを繰り返す。
「君の名前。もーいっかい、俺に教えて」
眠そうに掠れたその声は、どこか甘えた響きを帯びていた。騎士人生で聞いたことがあるその声音に、リーシェは戸惑いつつ口を開く。
「り……リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーです」
「リーシェ。……リーシェ、リーシェ……」
ヨエルはリーシェの手首を掴んだまま、一生懸命に記憶しようとするかのように繰り返した。
騎士人生では偽名を使っていたから、ヨエルに『リーシェ』と呼ばれたことはない。
その上に、かつては名前を覚えてもらうまであれほど苦心したのだが、今はあっさりと口にする。
「リーシェ。……俺と遊ぼう?」
「え……あ、あの」
「君が船室から出て見えなくなっても、船内に響く足音で、どんな戦い方をしているのか分かったよ。……体重が軽い女の子の足音、君でしょ?」
ヨエルは静かにリーシェを見つめた。
「なんだか不思議だけど、俺と近いタイプの剣術を使う、そんな音がしてた」
(……見てもいないのに、足音でそこまで分かったの……?)
騎士人生でリーシェが得たのは、令嬢時代に習った剣術よりも正確な技法だ。
その中でも、腕力ではなく身軽さや瞬発力で戦うヨエルの剣術は、リーシェの剣に大きな影響を与えている。
ヨエルはたったのあれだけで、それを見抜いたということらしい。
「だから、ね?」
何かをねだるような、そんな声音だ。
それでいて、決して獲物を逃すつもりのない響きを帯びた声が、リーシェに向けて告げる。
「……俺と、殺し合いごっこで遊ぼうよ」
「!」
いつもより低くなったヨエルの声に、本能的な危機感が芽生えた。
(六度目の人生のヨエル先輩は、私に対しては無関心から始まったけれど)
リーシェはこくりと喉を鳴らす。
(今度の人生は違う。……眠ることと剣術にしか関心のない先輩に、興味を持たれてしまったんだわ……)
これは、ある意味で失敗だ。




