204 殿下に慣れておきたいです
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アルノルトが起こす戦争については、大まかな未来を知っているリーシェであっても、その予想を立てることは難しい。
理由についてはいくつかある。たとえばリーシェは、過去人生におけるアルノルトのことを知らず、彼に何が起きたのかが分からないという点だ。
それから別の側面では、『ガルクハイン軍の動きが、毎回異なっている』というものがあった。
(しかも、その原因の一端は、恐らく私)
運河を下る船の甲板で、リーシェは小さく息をついた。
(一度目の人生。私は商人になって、タリー会長と一緒に商いをしたわ。……そのときに開拓してもらった陸路や航路が、世界中の流通を変えてしまって……)
商人にとって、品物を運ぶルートは重要だ。商人人生でのリーシェたちは、そういった『道』を見付ける名人たちと手を組んでいたのである。
(陸路や航路を活用するのは、軍隊も同じ。皇帝アルノルト・ハインは、私たちが広げた道を使って各国に攻め入ったわ)
川面を見ながらぼんやりと、過去人生のことを振り返る。
(薬師の人生も錬金術師の人生も、同じようなやり方で道を作った。それぞれ商人人生とは違うルートが必要だったから、この三回の人生では異なる道になったのよね。ガルクハイン軍は三回とも、そのとき出来ていた道の中から、最も効率的な順番で侵略をしていって……)
侍女の人生では、ミリアのために各国の教会を回る最適な道を。
狩人の人生では、諜報に必要な道を作ろうとする中で、頭首であるラウルからも新しい道を教わった。
騎士の人生では、リーシェは一介の騎士だった。
しかし、どうにかガルクハイン軍の動向が危険であることに気付いてもらうため、騎士団の団長や彼を通して国王に訴え掛けた。
その結果、結局はこの六度目の人生も、過去のどの人生とも違った交通事情が形成されていた。
(私が繰り返す人生ごとに、全世界の交通事情が、毎回変わってしまっているんだもの。……アルノルト殿下の侵略ルートや順番が、私のどの人生でも異なっているのはこの所為よね……)
リーシェはまったく知らない間に、出会ってもいないアルノルトの行動に影響を与えてしまっていたのだ。
そのことに、少々複雑な気持ちになった。
(未来のアルノルト殿下は、最も効率の良いやり方で戦争を進めてゆく。父殺しによる皇位簒奪だけなら、お父君との確執が原因だとも考えやすいけれど……合理的なアルノルト殿下が、意味もなく世界戦争なんて起こすはずはないもの)
甲板の手摺りに手を置いたリーシェは、はあっと溜め息をついた。
(父殺しだけではなく、その先の戦争にも理由があるんだわ。むしろ、お父君を手に掛けたのは、皇帝となって戦争をするための過程にしか過ぎない可能性だって……)
「――リーシェ」
「みゃん!!」
すぐ後ろから声がして、リーシェは肩を跳ねさせた。
「で、殿下」
振り返ると、甲板にはアルノルトが立っている。
アルノルトは下の船室で、オリヴァーと公務の話をしていた。
リーシェは、狭い船内でアルノルトの傍にいるのが落ち着かなくて、風に当たってくると出て来たのだ。
「帽子を忘れている」
「あわっ、ありがとう、ございます……!」
花やリボンのたくさんついた帽子が、ぽすっとリーシェの頭に乗せられた。アルノルトはリーシェの隣から、さほど興味もなさそうに景色を見渡す。
「随分と熱心に眺めていたな」
(……本当は、景色を見ていた訳ではないのだけれど)
リーシェは帽子を被りつつ、改めて顔を上げる。
「大きな運河ですね。ここがガルクハインにおける、海運貿易の要の街……」
水の煌めく運河には、たくさんの船が忙しなく行き交っていた。
リーシェたちが乗っているのは、荷物ではなく人を運ぶための二階建ての船だ。周りにはそれより小さな船もあれば、もっとずっと大きな船もある。
運河の両横に並ぶのは、煉瓦造りの建物だ。美しい河辺の街並みに、水面を渡る涼やかな風が吹き抜けてゆく。
「すごく活気を感じます。まるで街自体が心を持っていて、全身でわくわくしているかのよう。船を降りて、街の中を散策するのがとっても楽しみです」
「船着き場まではもう少しだ。馬車を手配しているが、宿まで歩くのでも構わないぞ」
「わあ……!」
それならば、是非ともあちこち寄り道をしてみたい。リーシェが目を輝かせると、アルノルトが柔らかなまなざしを向けて来た。
「……やはり、体調が悪いわけではなさそうだな」
「私がですか? はい、とっても元気です!」
「ならばいい」
リーシェが首を傾げると、アルノルトは、風に混ぜられたリーシェの髪を指で梳きながら言った。
「誕生日の願いを叶えて以来、落ち着かない様子でいただろう」
「!!」
その言葉に、耳まで赤くなってしまったのが自分でも分かる。
(それは、いっぱい口付けをしたことと、アルノルト殿下のことをお慕いしていると自覚してしまったからで……)
リーシェの動きが不審なことに、アルノルトが気が付かないはずも無かった。しかし、理由を口に出す勇気はない。
(私がそわそわしているのを、体調不良かもしれないと思わせていたなんて。ただでさえお忙しい殿下に、余計な心配をさせてしまうわけにはいかないわ)
リーシェは困り果てた末、そっとアルノルトの方に手を伸ばす。
そして、アルノルトの袖をきゅっと握った。
「リーシェ?」
変に思われるのは間違いない。
しかしリーシェは今後のためにも、勇気を出してねだる。
「少しだけ、こうしていてもいいですか……?」
「………………」
アルノルトは僅かに眉根を寄せると、ややあってリーシェに尋ねてきた。
「…………なぜ」
「その。ちょっとした、秘密の訓練をしたく……」
「訓練?」
リーシェは真っ赤な顔のまま、それを隠すために俯いた。
(……『好きな人』の傍にいることに、慣れるための……)
こうした練習を積み重ねれば、いずれは普段通りの態度で接することが出来るに違いない。そう思い、おずおずとアルノルトを上目遣いに見上げた。
「……」
アルノルトはやっぱり渋面を作ったまま、やがて小さな溜め息をつく。
「好きにしろ」
「っ、ありがとうございます!」
ほっとしつつ、改めてアルノルトの袖口を握り直した。
手を繋ぐ覚悟は出来ないが、このくらいの距離から馴染んでいけばなんとかなる。
きっと、アルノルトに心配を掛けないくらいの振る舞いに戻れるだろう。
(アルノルト殿下が、やさしいお方でよかった)
「……」
難しい顔のままのアルノルトが、ふとすぐ傍をすれ違う船に目をやった。
こちらと同じように、船倉が二階建てになっている構造のようだが、一回りほど小さな船だ。
船乗りがうまく帆を扱い、風を受けて上流に向かおうとしている。
「……?」
リーシェが抱いた違和感は、アルノルトと同じものだろう。
お互いの目線が、甲板に置かれた荷物に向けられている。
(あの荷物の形状、何かしら)
転がされているのは、大きな麻袋だった。
中身は箱の形ではなく、恐らくは液体でもない。大きな筒状の形をしている。
(もしかして、あの中身は)
リーシェが訝った、その瞬間だ。
「――!」
その麻袋が、僅かに動いた。
(やっぱり、人間!!)
リーシェが察知したその瞬間、アルノルトが言った。
「一度離れる」
「!」
返事をする暇もなく、握り締めていたアルノルトの袖が、リーシェの手から抜ける。
アルノルトは即座に船の手摺りへと足を掛けると、一切の躊躇なく、隣の船に飛び移った。
「殿下!」




