203 いつのまにそんな状況に!?
「私のウェディングドレスは一年前、成人の際に故国で仕立てたものです。この国で婚儀を挙げるにあたり、ガルクハイン風の刺繍を施して頂きに出したのですが」
「……例の、背中が大きく開いた意匠のドレスか」
(背中? ……確かにそうだわ。意匠画を一度お見せしただけなのに、細部まで覚えていて下さるなんて)
くすぐったい気持ちになるものの、アルノルトと目が合ったので、リーシェは慌てて逸らした。
「そ、その……! 本来でしたら、私が着た際にどう見えるかの最終確認をするため、職人さんが皇都にお越し下さる予定だったのです」
アルノルトの後ろで書類を整理しているオリヴァーが、微笑ましそうに口元を綻ばせる。
「女性にとってのウェディングドレスは、格別な思い入れがあるものとお聞きしますからね。リーシェさまもさぞかし楽しみにしていらっしゃるのでしょう」
「は、はい。ですが、私の希望した糸がなかなか仕入れられなかったことで、遅れが生じているようで……。職人さんの移動日数を考えると、仕上がりの日程に合わせて、私がお伺いした方が効率的かと」
もっともこれはリーシェにとって、決して不測の事態ではない。
それどころか、この時期にリーシェの求める刺繍糸が不足するのは、商人人生の経験から知っていた。
(こうしてウェディングドレスの準備に遅れが生じれば、今この時期に『あの街』に向かう口実になるわ。……ドレスを刺繍に出したときの計算通りになって、本当に良かった)
内心でほっとしつつも、リーシェは本題を告げる。
「ですからウェディングドレスのために、数日ほど滞在したいのです」
勇気を出してアルノルトを見据え、まっすぐに言い切った。
「ベゼトリア。――ガルクハイン最大の、運河の街へ」
「……」
その瞬間も、アルノルトの表情が変わることはない。
しかし今回のリーシェは、アルノルトが次に口にする言葉を予測していた。アルノルトは椅子の肘掛けに頬杖をつきながら、当然のように淡々と言い切る。
「俺も同行する」
(……やっぱり……)
アルノルトにも、この時期にあの街へ向かう理由が存在するのだ。
(アルノルト殿下の行動には、いくつもの意味がある。これもただ、私の我が儘に付き合ってくださるだけではなくて)
だが、リーシェがそれを知っていたようには振る舞えない。
それに加え、さまざまな心配事があるリーシェは、本心からアルノルトにこう尋ねた。
「アルノルト殿下。いつものことながら、ご公務がとてもお忙しいのでは?」
「オリヴァー」
「はい。もちろん調整いたします」
「オリヴァーさままで……!」
当然のように答えたオリヴァーに、リーシェは慌てる。
こうなることを計算していたとはいえ、やはりどうしても罪悪感があった。にもかかわらずアルノルトは、涼しい顔で書類にペンを走らせ始める。
「ベゼトリアであれば、行きは途中から船が使える。ここから二日ほどで着くだろう」
「では我が君、リーシェさま。こういうのはいかがでしょう」
アルノルトから受け取った書類を手にしたオリヴァーは、爽やかな笑顔で言い切った。
「ここはひとつ。おふたりの、『婚前旅行』という名目で」
「ひえ……っ」
その言葉に、リーシェは肩を跳ねさせる。
「諸々のご都合を調整するにも、これが最も聞こえがよろしいかと。皇太子ご夫妻がご結婚前に旅行をされたとあれば、ベゼトリアへの観光活性化にも繋がりますし」
「そ、それは仰る通りかもしれませんが……!!」
オリヴァーはなんでもないことのように言うが、リーシェにとっては一大事だ。
(……『婚前旅行』という、言葉の響きが……!)
リーシェは内心慌てつつ、アルノルトにも確かめる。
「あ、アルノルト殿下はどう思われますか……?」
「外出の名目がなんであろうと、別にどうでもいいが」
(そうですよね!!)
けれどもアルノルトは、無表情ながらにやさしいまなざしをリーシェに向けるのだ。
「それでも、お前が拒むことはしない」
「!」
柔らかな言葉に、心臓がどきりと高鳴った。
「望まないことがあるのなら、構わずに言え」
そんな気遣いに、俯いてからふるふると首を横に振った。
「……いいえ」
リーシェが困ってしまうのは、『婚前旅行』というその言葉が、決して嫌だからではない。
気恥ずかしさと同じくらい、嬉しいと思う気持ちがある。それだけはきちんと伝えなければと、勇気を出して口にした。
「アルノルト殿下との婚前旅行、行きたいです……」
「……」
アルノルトが僅かに目をすがめる。オリヴァーは微笑んで、てきぱきと話を進めた。
「ご安心くださいリーシェさま。我が君にとっても、リーシェさまと仲睦まじくしていらっしゃるのを知らしめるのは利になりますので」
「殿下の利、ですか? 確かに皇太子殿下のお立場は、妃を迎えることで盤石なものとなるのが通例ですが……」
とはいえ、それは結婚相手にもよるだろう。
「私は小国の、そのうえ公爵家の娘にしか過ぎません。この身分ではお役に立てないかと」
「いえいえ。我が君の後ろ盾となり得るのは、リーシェさまご自身の存在です」
「え!?」
微笑みながら告げられて、リーシェは驚いた。
慌てて見遣ったアルノルトは、オリヴァーの発言へ事も無げに同調する。
「そうだな」
アルノルトは、少し楽しむような表情でこう言った。
「コヨル国からの技術提供には、国内の目利きがすでに注目し始めている。新たな造幣事業が滞りなく進み始めているのも、シグウェル国の姿勢が協力的だからだ。どちらもお前の働きが大きい」
「我が君とリーシェさまの婚姻の儀も、国内外に注目されています。なにせ婚礼祝いには、世界中で信仰されているクルシェード教の次期大司教がご参列されるそうですから。これは歴史上初めてとも言われる異例の事態ですよ」
「あの、おふたりとも!?」
思わぬ方向に話が流れ、リーシェは急いでふたりを止めた。
「大袈裟です。それらはすべて、アルノルト殿下のご決断があってこそのことですし!」
「爪紅の開発と、アリア商会との提携による貧民街救済策についても、国民からの関心を集めているな」
「うぐ……!」
「政治にさほど関心のない人々も、おふたりの婚儀を楽しみになさっていますね。しかも当日はあの歌姫シルヴィアが、祝福の歌を歌うことになりましたし」
それはシルヴィアからの申し出だ。昨日会いに行った彼女は、『リーシェや皇太子殿下に何かお返しをしたいの』と言ってくれた。世界的な歌姫に婚儀の祝福を歌ってもらえるなんて、とても得難いことだ。
「リーシェさまがいらっしゃってから、我が君とテオドール殿下の関係も良化しました。リーシェさまのお力は、我が国の貴族諸侯も注目しているんですよ?」
「か、買い被りすぎでは……!?」
いつのまにそんなことになっていたのかと、リーシェは愕然としてしまう。
助けを求めてアルノルトを見ると、彼はどこか満足そうに目をすがめた。
「精々見せ付けてやればいい。問題は無いだろう」
「うぐぐ、面白がっていらっしゃる……!」
ともあれ今は、戦争回避のための対策だ。
(アルノルト殿下の未来のために。ウェディングドレス完成を口実にしつつ、『あの件』を頑張らなくちゃ……!)
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